大御所時代 文化・文政時代
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文化・文政時代

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文化・文政時代

松平定信が老中を辞職後、文化・文政時代を中心に11代将軍家斉が在職し、将軍職を家慶にゆずったのちも、大御所として死ぬまで幕府の実権を握り続けた。これにちなんで、文政から天保の改革以前の間を大御所時代と呼ばれる。

文化・文政時代

大御所時代(1793〜1841)

特色11代将軍家斉の治世
大御所としても実権を握る(大御所時代)
政治と政策老中水野忠成の賄賂政治 → 政治の腐敗
奢侈な生活 → 財政破綻・貨幣改鋳の利益
関東農村の治安混乱(無宿人の増加) → 関東取締出役の設置(1805) → 寄場組合の結成(1827)
結果放漫な政治 → 商品貨幣経済・農村工業の進展、都市人口の増加
天保の飢饉(1833〜39頃)
→ 物価騰貴、生活の破綻
→ 百姓一揆・打ちこわしが頻発
大塩の乱(1837):「窮民救済」を掲げ、大坂で挙兵
→ 幕府の威信は失墜
化政文化の開花:江戸を中心に開花、町人文化の爛熟
参考:山川 詳説日本史図録

松平定信が老中を辞職したのち、文化・文政時代を中心に11代将軍家斉が在職し、1837(天保8)年に将軍職を家慶(1793~1853)にゆずったのちも、大御所(前将軍)として死ぬまで幕府の実権を握り続けた。これにちなんで、主に文政から天保の改革以前の間を大御所時代とも呼んでいる。定信の辞職後も、定信が登用した「寛政の遺老」と称される松平信明まつだいらのぶあきら(1760- 1817) らの老中たちにより、寛政の改革の路線が引き継がれていたが、1818(文政元)年に水野忠成みずのただあきら(1762~1834)が老中になると、幕政は大きく転換した。寛政の改革以来の財政緊縮政策は、蝦夷地経営や将軍家斉の子女の縁組みなどの臨時経費の増大により、行き詰まった。そこで幕府は、総計で金4819万7870両と銀22万4981貫にのぼる品位を落した文政小判などの貨幣を大量に鋳造し、550万両にのぼる利益を得た。貨幣改鋳は幕府財政を潤したが、質の悪い貨幣が大量に流通したため物価は上昇し、物価問題が幕政上の重要な課題となった。しかし、この政策は商品生産を刺激し、商人の経済活動もいっそう活発となり、都市を中心に化政文化と呼ばれる庶民文化の花が開くことにもなった。

このころ、江戸を取り巻く関東農村では、貨幣経済が浸透して交通・流通の要所が町場化し、商人や地主は力をつけてきたが、没落する農民も多く発生するようになった。それに加えて、幕僚と私領が入り組んでいたため、無宿人や博徒の集団により治安の乱れが生じた。幕府は1805(文化2)年、関東取締出役(俗に八州廻りと呼ばれる) を設け、幕領・私領の別なく犯罪者を逮捕させた。さらに1827(文政10)年には、幕領・私領の区別なく近隣の村々で組合をつくって小惣代こそうだいをおき、それをいくつかまとめて大惣代だいそうだいをおき、共同して地域の治安や風俗取締りにあたらせる寄場組合よせばくみあい(改革組合村ともいう)をつくらせた。

勘定奉行の配下で代官所の手付・手代から選任され、水戸藩領を除く関八州を幕領・私領の区別なく廻村し、目明しを使って犯罪人の逮捕にあたった。
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