正徳の政治
6代徳川家宣・7代徳川家継 ©世界の歴史まっぷ

正徳の政治

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正徳の政治

  • 幕政の刷新:①生類憐み令の廃止、②荻原重秀罷免
  • 朝幕関係の融和:閑院宮家の創設
  • 儀礼の整備:①儀式・服制・官位の整備、②朝鮮通信使の待遇を簡素化、③国書に使用する「日本国大君」号を「日本国王」号に復す
  • 経済政策:①貨幣改鋳:正徳小判=良質の貨幣を発行、②海舶互市新例
  • 結果:儒教に基づく理想主義的政策が、現実と食い違いかえって政治を混乱させた

正徳の政治

新井白石と正徳の政治

政策内容幕政の刷新①生類憐み令の廃止
②荻原重秀罷免
朝幕関係の融和閑院宮家の創設
儀礼の整備①儀式・服制・官位の整備
②朝鮮通信使の待遇を簡素化
③国書に使用する「日本国大君」号を「日本国王」号に復す
経済政策①貨幣改鋳:正徳小判=良質の貨幣を発行
②海舶互市新例
・目的:金銀の海外流出を防止
・内容:貿易額を制限
結果儒教に基づく理想主義的政策が、現実と食い違いかえって政治を混乱させた
参考:山川 詳説日本史図録 1709(宝永6)年、5代将軍綱吉が死去したあと、甥の甲府藩主であった将軍世子徳川家宣(1662〜1712)が6代将軍となった。家宣は、綱吉の政治を支えた柳沢吉保を排除し、かわって側用人間部詮房まなべあきふさ(1666〜1720)と儒者新井白石(1657〜1725)を信任して、政治の刷新をはかった。

間部詮房と新井白石

間部詮房まなべあきふさの父は甲府宰相綱重(家宣の父)に抱えられ、詮房は桜田御殿(甲府藩江戸屋敷)用人から西の丸にしたがい、家宣が将軍になると3万石の老中格になり、やがて上野国高崎城5万石が与えられた。新井白石は浪人を繰り返したのち、朱子学者木下順庵の門弟となり、木下の勧めで甲府藩主綱豊(家宣)の侍講じこうになった。西の丸・本丸へと移り、1709(宝永6)年に儒者として500石、1711(正徳元)年に1000石が与えられた。学者の俸禄は常に少ないのである。
まず生類憐み令を廃止し、賄賂を厳禁した。しかし、服忌令をはじめとして前代の忠孝・礼儀の政治は受け継がれ、朝廷との協調関係も増した。朝廷では、霊元天皇をおさえ込んだ近衛基熙このえもとひろ(1648〜1722)が太政大臣となり、息子の近衛家熙このえいえひろ(1667〜1736)が関白となって中枢を占めた。近衛基熙の娘は、将軍家宣の正室でもあり、幕府と朝廷の協調は、閑院宮かんいんのみや家創設となって具体化した。それまで宮家(世襲親王家)は伏見ふしみ·かつら有栖川ありすがわの3家しかなく、天皇の子弟の多くが出家して門跡寺院に入室している状態を少しでも改善しようと、幕府は費用を献じて特例として閑院宮家を設け、以後4宮家は幕末まで存続した。 家宣政権は物価騰貴をもたらした元禄小判を改鋳して、乾字金けんじきんを発行した。乾字金は金の含有率を慶長小判にもどしたが、量は半分の目方しかなく、乾字金に交換する動きは活発化しなかった。荻原重秀が依然勘定奉行にとどまつての新貨鋳造は失敗に終わった。 1711(正徳元)年、家宣の将軍宣下を慶賀する朝鮮通信使が日本に来訪した。その際、新井白石は従来の外交文書とは異なる礼法を用いた。それまでの朝鮮からの国書には、日本の将軍に対して「日本国大君たいくん」と書かれてきた。これを「日本国王こくおう」宛てに改めさせたのである。「大君」が「国王」より低い意味をもつことを嫌ったからである。また、使節の待遇は丁重に過ぎたと、これを簡素に改めた。 しかし将軍家宣は、1712(正徳2)年に病死した。治政3年9カ月の短命な将軍であった。跡を継いだ子の徳川家継(1709〜16)は、満で3歳2カ月の幼児であった。幕政における間部と白石への依存度は増した。白石らは、幼児将軍を権威づけるために、家継と皇女八十宮やそのみやの婚約を1715(正徳5)年に発表した。ときに将軍は満5歳、皇女は2歳であった。また、将軍個人の人格ではなく、将軍の地位が格式と権威をもつように、儀式・典礼を重視し、身分の上下が一目で明確になるように服制も整備された。 新井白石は、幕府財政を握っていた荻原重秀を罷免させたあと、1714(正徳4)年、正徳小判を発行した。これは、慶長小判と同じ金の含有率、量で、元禄小判乾字金で混乱した貨幣流通を回復させようとした。貨幣改鋳とならんで白石の経済政策として長崎貿易の制限がある。オランダ・中国(明・清)との貿易で、1601(慶長6)年以降1708(宝永5)年までの100年余りで国内の産出金銀の金4分の1、銀4分の3が流出したと白石は概算し、海舶互市新例かいはくごししんれい(長崎新令·正徳新令)を1715(正徳5)年に出して、1年間に清船は30隻、銀高6000貰、オランダ船は2隻、銀高3000貰に貿易額を制限した。

長崎貿易

1683(天和3)年、清(王朝)が海外貿易の禁止(遷海令せんかいれい)を解除すると、中国商船は長崎に押し寄せた。1685(貞享2)年、幕府は中国船の年間取引高を金10万両(銀にして6000貰)に限定した。オランダ船は金5万両(銀にして3000貰)に制限した(「定高仕法さだめだかしほう」と呼ぶ)。また中国船の入港数を70隻に限ったため、1688(元禄元)年は124隻の中国船が入港できず秘かに抜荷ぬけに(密貿易)を行った。
新井白石の政策は、為政者として正当なものを打ち出したようにみえる。しかし、7代将軍家継は1716(享保元)年、急逝したため、新井白石の政治は、短命将軍、幼児将軍合わせて8年に満たないものに終わった。