町衆の生活
茶道:侘茶の完成(千利休)
芸能:かぶき踊り(阿国歌舞伎)、人形浄瑠璃、隆達節(高三隆達)
風俗:小袖の着用が一般化、食事が1日2回から3回へ
町衆の生活
新興の武将らとともに、京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する富裕な町衆も、この時代の文化の担い手であった。
茶道
その一人である堺の千利休(宗易)は、茶の湯の儀礼を定め、茶道を確立した。利体の完成した佗茶の方式は簡素・閑寂を精神とし、華やかな桃山文化のなかに異なった一面を生み出した。茶の湯は豊臣秀吉や諸大名の保護を受けて大いに流行し、茶室・茶器・庭園に優れたものがつくられ、また花道や香道も発達した。茶室としては千利休作と伝えられる妙喜庵茶室(待庵)が洗練された草庵風茶室として著名である。また、秀吉も組立て式の黄金の茶室をつくり、内裏や大坂城、名護屋城などで茶会を催すなど、利休とは異なる趣向で茶道を愛した。1587(天正15)年に京都北野で開いた北野大茶湯では、千利休・今井宗久(1520~93)・津田宗及(P~1591)らの茶人を中心に、貧富・身分の別なく民衆も参加させた。また大名たちも盛んに茶会を催し、武将のなかからも織田有楽斎(信長の弟で長益、1547~1621)・小堀遠州(1579~1647)・古田織部(1544?~1615)らの茶人が出た。
芸能
かぶき踊り(阿国歌舞伎)
庶民の娯楽としては、室町時代からの能や風流踊りがあったが、17世紀初めに出雲大社の巫女の出身といわれる出雲阿国(生没年不詳)が京都でかぶき踊りを始めて人々にもてはやされ(阿国歌舞伎)、やがてこれをもとに簡単なしぐさを加えた女歌舞伎が生まれた。「かぶき」とは「傾く」という語から生まれた言葉で、目を驚かす異様な姿でかわったことをする者を当時「かぶき者」といったが、阿国は当時流行していたこの「かぶき者」の風俗を踊りを交じえながら演じたので、その芸能を「かぶき踊り」と呼ぶようになった。女歌舞伎はそののち風俗を乱すという理由で江戸幕府によって1629(寛永6)年に禁止され、ついで少年が演じる若衆歌舞伎が盛んになったが、これも17世紀半ばに禁じられ、以後は成人男性だけの野郎歌舞伎になった。
人形浄瑠璃
また、琉球から渡来した三味線(三弦・三線)を伴奏楽器にして、操り人形を動かす人形浄瑠璃も流行した。これは室町時代に語り物の一つとして生まれ、元来、琵琶などによって伴奏されていた浄瑠璃節と、古代以来行われていた芸能の一つである人形操りとが結合したもので、この時期、三味線を導入したことによって大いに広まった。
隆達節
堺の商人の高三隆達(1527~1611)が小歌に節づけをした隆達節(隆達小歌)も民衆に人気があり、盆踊りなども各地で盛んに行われた。
衣服
衣服は小袖が一般に用いられ、各階層によって模様や色彩に変化をつけたさまざまな服装が生まれた。男性は袴をつけることが多く、簡単な礼服としては室町時代以来の素襖に加え、肩衣・袴(裃)を用いることが多くなった。また、中世には成人男性を象徴するものとして日常的に用いられた烏帽子は、儀礼的な席以外ではほとんど着用されることがなくなった。女性の場合、武家の女性の間では打掛・腰巻などが殿中での表着として用いられたが、庶民の間では小袖の着流しがふつうになり、いわゆる着物が成立した。男女ともに結髪するようになり、男性では頭上を広くそりあげる月代の風習が武士を中心に広まり、のち庶民にも普及した。食事も朝夕2回から昼食が加わって3回になり、公家や武士は日常の食事に米を用いたが、庶民の多くは雑穀を常食としていた。
住居
住居は、農村では萱葺き屋根の平屋がふつうであったが、京都などの都市では2階建ての住居も建てられ、瓦屋根も多くなった。