社会の変動(鎌倉時代)
鎌倉時代の市『一遍上人絵伝』備前国福岡の市日。道路をはさんで建てられた仮小屋では活発な交換風景がみられる。(画像出典:詳説日本史研究)

社会の変動(鎌倉時代)

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社会の変動(鎌倉時代) 鎌倉時代は、目覚ましく農業が発達し、肥料や農具の進化、灌漑のためには用水池が築かれ生産量の増大をもたらした。一方で地頭や領主への農民の激しい抵抗も生み出したが、農民が直接暴力で領主に対抗しようとする動きはまだみられない。しかし、畿内・近国において、荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士たちは、武力を行使して年貢の納入を拒絶したり、反領主的行動をとるようになった(悪党)。

社会の変動(鎌倉時代)

鎌倉時代における生産の基盤は農村であり、農業に従事する農民をはじめ、武士・商人・手工業者・宗教者など、 さまざまな人々が農村で日々の生活を営んでいた。農村を区分する単位として荘園があり、国衛領の郷や保があつた。国衛領はいわば国司を領主とする荘園であり、両者をひとまとめにして荘園公領といういい方をする。
農村で農業経営の中心にあったのは、名主みょうしゅと呼ばれる上層農民であった。彼らは荘園領主から「〜みょう」(国吉名・季貞すえさだ名のように人名が付される。この人名は名主の氏名とは関係ない)と称される土地であるみょうの耕作を請け負っている。1〜2町の名しかもたぬ小名主もおり、数十町の名をもつ大名主もいた。荘園領主から下級荘官に任じられ、農村の支配的地位を占める者もあった。名主たちは荘園内に屋敷を設け、屋敷内には下人・所従などの下層農民を居住させる。
越後国奥山荘の図
越後国奥山荘の図(画像出典:詳説日本史研究)

越後国奥山荘の図:13世紀末このろ越後国蒲原郡奥山荘である。土地の豪族中条茂連なかじょうしげつらは南方を、茂長しげながは北方を領し、その館も見えるが、そのほかに、鋳物師いもじの家、七日市・高野市の市がみえ、藤内入道名とうないにゅうどうみょう藤大夫名とうだゆうみょうなどの名主の家も記されている。

屋敷近くのつくだ(手作・正作)は下人・所従の労働力をもって直接に経営し、残りの土地は請作うけさくに出して作人さくにんに耕作させた。作人は名主と下人・所従の中間に位置する小規模農民で、下人・所従が名主に隷属しているのに対し、人格的には自立した存在であったとされる。 名主や作人らの農民は、税を納めた。税の主なものは年貢と公事くじ、それに夫役ふやくである。年貢は租の系譜を引くもので、土地に課せわれた。収穫された米の30~40%が徴収された。 公事は調に類似しており、海産物・果物・手工業品などの各地方の特産物を納めるもので、税率はとくに定まっていなかった。現物納が多かった年貢に対し、銭納にかえられることもあった。 夫役は人夫役のことで、佃の耕作、堤防や池溝の築造・修理などの土木工事、領主の屋敷・倉庫の警備、税の運搬などの労働奉仕であった。畿内・近国の荘園には、京都での労働を義務づけたところもあり、苛酷なつとめであった。 鎌倉時代には、目覚ましい農業の発達をみることができる。畿内・近国では麦を裏作とする二毛作が普及し、徐々に周辺にも広まっていった。麦のかわりに荏胡麻えごま(灯油の原料)を栽培するところもあった。また米の品種が改良され、早稲わせ晩稲おくてに加え、中稲なかてをつくるようになった。肥料は従来の人糞尿のほか、草を土の中に埋めて腐らせた刈敷かりしきや、草木を焼いてつくった草木灰が使われるようになり、生産量の増大をもたらした。耕作には牛馬、とくに牛を利用することが多くなった。農具も進化した。当時の農具は耕作用のくわすきからすきや刈り取り用の鎌などであるが、荘園の鍛治職人がこうした農具を安い値で商品として供給するようになり、広く農民全般に農具がいきわたった。灌漑のためには用水池が築かれ、水車も用いられた。 新しい農業技術は、農業生産力を著しく向上させた。生産力の向上は農民たちに経済的余力の蓄積をもたらし、 このことが農村に新しい秩序を生んだ。例えば、作人のある者は名田を買い入れて独立し、小作労働を放棄して、名主の影響力から脱却していった。名主に隷属していた下人・所従のある者は、従来の奴隷的な境遇から解放されて、作人へと成長していった。 地頭や荘園領主も農村の変化にただちに対応した。名を手にした者を新たな名主と認め、下人や所従が小農民として自立していくことを許容した。自身の直営地で働かせていた下人・所従を解放した例もある。地頭や荘園領主たちは農民の地位の上昇を保障することにより、 より多く、 より確実に生産物を徴収しようと目論んだのであった。 けれども農村の変化は、一方で地頭や領主への農民の激しい抵抗も生み出した。農民たちは名主を中心に団結し、自立しつつある小農民も広く取り込んで、地域的な結合を果たした。彼らは一味同心し、領主に年貢の減免を請願したり、非法を働く領主の代官の罷免を求めた。朝廷や幕府の法廷に出向き、訴訟をおこす主体にもなった。また逃散ちょうさんとか山入りなどと称し、山野に一定期間逃亡して田畠の耕作を拒否する、一種のストライキも実施した。直接暴力で領主に対抗しようとする動きこそ鎌倉時代にはまだみられないが、彼ら農民の動きは活発で、阿弖河あてがわ荘民の行動などはその好例である。

阿弖河荘民の訴状

1275(建治元)年、寂楽寺じゃくらくじ領紀伊国阿弖河荘の百姓たちは地頭湯浅ゆあさ氏の非道を荘園領主に訴えた。それがこの訴状である。荘園領主から課された材木を切り出そうとしたところ、地頭の人夫として徴発されてしまった。残りの者が山へ向かうと、地頭は逃亡百姓の土地に麦をまけといって追い返し、抵抗すると「耳を切り鼻を削ぎ」などの乱暴・拷間を加えた。あるいはこれは、領家への材木納入の遅延の言い訳なのかもしれないが、たどたどしい文章のなかに百姓たちの苦しさがよくにじみ出ている。
暴力での抵抗といえば、悪党あくとうに注目しなければならない。蒙古襲来の頃から畿内・近国において、荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士たちが、武力を行使して年貢の納入を拒絶したり、反領主的行動をとるようになった。こうした武士を当時悪党と呼んだが、彼らは50騎・100騎と通常の武士団にも負けない規模を有し、立派な具足に身を包み、 ときには数千と称する人夫を率いて近隣の荘園に討ち入り、物資を略奪し、さまざまな反幕府・反領主的活動を展開した。悪党はやがて各地に広がっていき、百姓の抵抗運動とともに、荘園領主や幕府を悩ますようになっていった。

悪党の活動

鎌倉時代末期、畿内を中心に現れた新しい武士層をいう。農村経済の発達によって生まれた余剰生産物を手にした荘官や名主のなかから、近隣と横の連携を保って反荘園・反幕府の実力行使を行う者が現れた。幕府や荘園領主は彼らを悪党と呼び、忌み嫌った。しかし彼らの勢力は強く、その協力を得なければ経営が円滑に行えない荘園も多かった。南北朝時代初期に書かれた『峯相記みねあいき』は播磨はりま国の悪党の様子を描いている。1300年前後からその活動は盛んになり、当初は「異形異類ナルアリサマ」であったが、1320年ころには「吉キ馬二乗り、五十騎百騎打ツヅキ、引馬ひきうま唐櫃からびつ弓箭きゅうせん・兵具ノ類ヒ金銀ヲチリバメ、鎧・腹巻テリカガヤク計り」であった。守護以下の武士はその威勢を恐れ、賄賂をもらって鎮圧に動かず、「国中ノ上下過半彼等二同意スル」ありさまだったという。