蒙古襲来後の政治 鎌倉末期の守護の配置図
鎌倉末期の守護の配置

蒙古襲来後の政治

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蒙古襲来後の政治

  • 1274:文永の役
  • 1275:異国警固番役強化
  • 1279:南宋滅亡
  • 1281:弘安の役
  • 1284:北条時宗死去、北条貞時執権就任。御家人・御内人間の対立激化
  • 1285:霜月騒動・御内人首座平頼綱が御家人安達泰盛一族を滅ぼす。得宗専制政治が確立
  • 1293:鎮西探題設置・九州の御家人の統括と訴訟の裁許を管掌。
  • 1297:永仁の徳政令

蒙古襲来後の政治

2度にわたる元軍の来攻を退けたものの、いつ3回目の攻撃が実行されるか、 まったく予測できなかった。幕府は異国警固番役を続けて御家人に課し、沿岸の警備にあたらせた。また当時はすでに機能しなくなっていた鎮西奉公にかわり、鎮西探題ちんぜいたんだいを博多において、北条氏一門をこれに任じた。鎮西探題は六波羅探題に準じたもので、九州の御家人の統括と訴訟の裁許を管掌した。九州の政治的中心は、これを機に大宰府から博多に移行した。

蒙古襲来後の政治 鎌倉末期の守護の配置図
鎌倉末期の守護の配置

幕府内部では北条氏の力がますます大きくなっていった。すでに北条時頼の執権時に、評定衆による合議にはからず、私邸で一門の秘密会議を開いて重要事項を決定することがあった。この傾向は彼の子北条時宗の代にはいっそう顕著になり、対モンゴルの方策にしても、時宗は評定衆や有力御家人に相談することなく、私的に一門や近臣の意見を聞いて独断的に決めていった。こうして北条氏の本家、すなわち得宗を中心とする専制体制が姿を現してくる。評定衆や引付衆の要職には、北条氏一門の者が多く就任した。諸国の守護職も、有力御家人はさまざまな口実で任を解かれ、かわりに名越なごえ・極楽寺・金沢・大仏おさらぎらの北条氏一門の各氏が任命された。蒙古襲来に際しては防衛力の整備を理由として、九州・山陽・山陰地方にかけて、そうした守護交替がしきりであった。北条氏は幕府減亡時までに、30カ国以上の守護職を手中にしている。北条氏の躍進とともに北条氏の家臣の地位も向上し、 とくに得宗の家臣は御内人みうちびとと呼ばれ、有力な御内人は幕府政治に関与するようになった。

鎌倉幕府の権力推移図
鎌倉幕府の権力推移図 ©世界の歴史まっぷ

時宗の執権時、幕府には彼のほかに2人の実力者がいた。有力御家人の安達泰盛あだちやすもり(1231~85)と、御内人首座(内管領うちかんれいという)の平頼綱(?~ 1293)である。両者は勢力争いを続けていたが、調停役をつとめていた時宗が1284(弘安7)年に33歳の若さで死去すると、対立はにわかに激化し、よく1285(弘安8)年11月、平頼綱は兵を集めて安達泰盛一族を滅ぼした。この事件を、発生した月にちなんで霜月騒動しもつきそうどうと言う。北条時宗の子の北条貞時(1271〜1311)は父の手法を継承し、得宗家に権力を集中させていった。御家人の代表者が政治に関与する機会はますます減少し、得宗と得宗を支える一門・御内人による得宗専制政治が確立したのである。

霜月騒動

通説は安達泰盛を御家人の代表、平頼綱を御内人の代表とする。得宗の力の増大は御内人の発言力の増大であり、幕府運営の主導権をかけて、御内人は鋭く御家人と対決するまでに成長した。それが頼綱と泰盛の抗争の本質である。泰盛が多くの御家人とともに敗死したことは御家人勢力の敗北を意味すると説く。この通説に対抗する見解もある。泰盛の娘(本当は妹で養女)は時宗の正室で、貞時は泰盛の孫であった。泰盛は外戚として時宗や貞時の勢力拡大につとめたのであり、彼を御家人勢力の代弁者とはみなし難い。泰盛と頼綱の争いは、得宗の第一の後援者の地位をめぐる争いであった、というのである。この説によれば、すでに時宗の時期には御家人勢力は代弁者を見出せぬほど弱まっていたことになり、それだけ得宗の力を大きくみている。ともあれ両説とも、貞時の時期を得宗専制期とすることについては異論がない。

貞時は1293(永仁元)年には頼綱をも誅殺し、政務を一手に握った。ちなみに、北条泰時が政治・裁判の決断権を手中にして執権政治を確立したとする先の説は、続いてつぎのように論を進める。将軍が御家人の権利(とくに土地への権利)を保障する行為を「安堵」とい
うが、貞時はこの安堵を行う権限を将軍から奪い、得宗専制を完成させた、と。

御家入社会の内部では、 きわめて深刻な破綻が生じつつあった。来襲した元軍に勝利したとはいえ、幕府は領土・金銭を得たわけではなく、御家人たちに恩賞を給与する余力はほとんどなかった。命をかけて戦った多くの武士が、何らの恩賞にも与かれない結果となった。奉公に対する恩賞という、封建社会第一の原則は守られなかったのである。戦闘ヘの参加、異国警固番役、西国への移住と、多大な負担を強いられながら報われなかった御家人は、経済的困窮にさいなまれながら、幕府への不信をつのらせていった。

もともと鎌倉時代中期以降、御家人の生活は窮乏しつつあった。戦いがなくなって所領の増加がないところに、分割相続が代を重ね、所領が細分化されて収入は激減した。女性に与えられる財産がまず初めに削られ、女性の地位は相対的に低下した。兄弟の共倒れを防ぐため、やがて1人の相続者、すなわち惣領が家督の地位に加えて全所領を相続する単独相続がなされるようになった。女性に土地が与えられる場合でも、本人一代限りで、死後は惣領に返す約束つきの相続(一期分)が一般化した。けれども、この単独相続が広まるまでに、多くの零細な貧しい御家人が生まれていた。

もう一つ、長い間、在地の生産物に経済的な基盤をおいてきた御家人たちは、各地域に急速に浸透していった(13世紀半ば、 という説が有力)貨幣経済に対処し切れなかった。加速する経済の流れに、ついていけなくなったのである。その結果として大きな損失をこうむり窮乏する者が多く現れた。彼らは何よりも大事な所領を質に入れたり、売却して生活の糧を得ようとした。こうした情勢のもとに元軍の来襲があり、御家人たちは決定的な痛手をこうむった。

1240(仁治元)年、幕府は御家人の所領を保護するため、御家人領の売却を禁じた。1267(文永4)年には所領の質流れを禁じ、すでに売却したり質流れになった分の所領については、代金代償のうえで取りもどさせた。だがこうした方策は効果を現さず、所領を失う御家人は増える一方であった。そこで幕府は1297(永仁5)年、いわゆる永仁の徳政令を発した。これは所領の売却・質入れを禁止するとともに、地頭・御家人に売却した土地で売却後20年未満のものと非御家人・庶民に売去日した土地のすべてを、無償で売り手である御家人のもとに返去口させた法令である。徳政令が適用されるのは御家人の所領に限定されており、その目的はいうまでもなく、御家人の窮乏を救い、所領の喪失を防ぐことにあつた。しかし、このような思い切った施策も、御家人の没落の歯止めにはならなかった。所領の処分を望む者、窮状を訴えて善処を求める者はあとを絶たず、早くも幕府は翌1298(永仁6)年、土地の売却・質入れの禁止と越訴(再審)の禁止を撤回したほどであつた。困窮する御家人は、日に日に不満をつのらせ、得宗が主導する幕府はそれをおさえるために、さらに専制的・高圧的になつていく。そしてそのことがますます御家人たちの反発を招き、幕府の存在を動揺させる結果となった。

永仁の徳政令

この法令は御家人のみの救済を意図しており、非御家人や一般庶民は甚大な損害をこうむった。北条時頼が執権であったころ、幕府は「撫民」を政治目標としていた。それに比べると、幕府の施政方針は明らかに変化している。
この法令には、(1)越訴(再審請求)を禁じる。(2)領地の質入れ・売買を禁止し、売却地の取りもどしを命じる。(3)金銭訴訟は受理しない。以上、三つの施行細則がついていた。つまり、御家人は土地を取りもどせる反面、重要な裁判の機会の放棄を命じられたのであり、このことへの彼らの反発は激しかった。そのために、翌年には、土地の無償取りもどし条項のみを残し、ほかの法令は廃止されている。

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