貨幣と金融
金・銀・銭の三貨の交換は面倒で、しかも貨幣相場が変動したので、貨幣流通は必ずしも安定しなかった。そのうえ、江戸を中心とする東日本では主に金で取引され(金遣い)、大坂など西日本では銀が中心(銀遣い)であったため、東西の商取引は不便をきたすことがあった。これを利用して利益をあげたのが両替商であった。
貨幣と金融
全国的に通用する同じ規格の金·銀の貨幣は、1600(慶長5)年開設の金座・銀座で鋳造された。金座は江戸と京都におかれ、後藤庄三郎(生没年不詳)のもとで、小判・一分金などを鋳造した。銀座は、大黒常是のもとでまず伏見・駿府におかれ、のちに京都・江戸に移されて、丁銀・豆板銀などを鋳造した。金座·銀座はのちに江戸に一本化される。金貨は1両=4分、1分=4朱の4進法で数える計数貨幣であり、銀貨は目方を計る秤量貨幣であった。
幕府は、金座・銀屋・銭座で三貨を鋳造して流通させた。小判や寛永通宝などの銭貨は計数貨幣であったのに対し、丁銀・豆板銀などの銀貨は秤量貨幣であった。交換比率は1609年に金1両=銀50匁=銭4貫文と公定。1700年に金1両=銀60匁と改められたが実際は時期により変動した。 山川 詳説日本史図録
銭貨は近世当初、中国銭である永楽銭がまだ大量に流通しており、永楽銭1貫文=金1両の交換比率に定めて混乱を防ぐにとどまった。しかし、寛永期に江戸と近江坂本に銭座をつくり、寛永通宝を大量に鋳造して以来、各地に設けられた民間請負の銭座で寛永通宝の一文銭・四文銭などを銅や鉄で鋳造し、銭貨を広く普及させた。そして17世紀なかごろまでに金・銀・銭の三貨は全国に普及し、商品流通の飛躍的な発展を支えた。
以上の金・銀・銭の三貨の交換は面倒で、しかも貨幣相場が変動したので、貨幣流通は必ずしも安定しなかった。そのうえ、江戸を中心とする東日本では主に金で取引され(金遣い)、大坂など西日本では銀が中心(銀遣い)であったため、東西の商取引は不便をきたすことがあった。これを利用して利益をあげたのが両替商であった。
三都や城下町の両替商は三貨間の両替や秤量を商売とし、また三井両替店や大坂の天王寺屋・鴻池などの本両替は、公金の出納や為替・貸付などの今日の銀行にも似た業務を合わせて行い、幕府や藩の財政を支え、また流通の促進にも役立った。
しかし、幕府による統一貨幣の流通量は十分ではなく、17世紀後半から、各藩では城下町を中心とする藩経済の発達のもとで藩札を発行し、流通させた。藩札は、三貨の不足を補うだけではなく、藩財政の窮乏を救うねらいもあり、藩によっては専売制と結びつけ、藩が領内から特産品を買上げる際に藩札で支払い、商品を三都に売りさばいて三貨を獲得する例もあった。