資本主義の発展
東京駿河町三井組バンクの錦絵 1874年(明治7)年に建てられた三井組の総本山。背後に日本銀行・第一銀行が見える。東京名所之内駿河町之図 東京駿河町三井組三階屋西洋之図(日本銀行蔵/画像出典:日本銀行金融研究所貨幣博物館

資本主義の発展

明治40年の恐慌を経て、三井・三菱・住友などの財閥が金融·貿易・運輸·鉱山業など多角的経営を進め、三井財閥が三井合名会社を設立、各財閥とも持株会社を中心にコンツェルンの形態を整えて産業界を支配する独占資本が形成された。

資本主義の発展

日露戦争が終わると、軍備拡張をはじめとする戦後経営の必要から、国家財政はいっそう膨張した。政府は外国債や国内債の募集をさらに拡大し、また、各種の増税を行ってその財源にあてたが、財政状態は苦しかった。そうした財政の重圧のもとで日露戦争後の企業勃輿は日清戦争後に比較するとあまり活発ではなく、好況も短期間に終わって、1907(明治40)年には恐慌がおこり、その後も不況が続いた。とくに農業生産の停滞や農家の窮迫が、この時期には社会問題として取りあげられるようになった。

工業

日露戦争後、これまで遅れていた重工業部門では、造船・車両・機械器具、鉄鋼·水力発電事業などが著しい発展を示した。例えば造船業では、造船技術が世界の水準に追いつき、鋼鉄製の1万トン級大型航洋船が国産できるようになり、その国内自給率も、戦後数年のうちに60%近くになった。鉄鋼業では官営の八幡製鉄所の生産が本格化し、日本の銑鉄せんてつ生産量は1901(明治34)年の5万トンから1913(大正2)年には24万トンと5倍近くに増え、鋼材は同じ期間中に6000トンから25万トンに達した。日本製鋼所をはじめ民間の製鋼会社も設立されるなど、鉄鋼業の分野でも民間企業がしだいに発展してきた。そのほか工作機械工業では、池貝鉄工所が旋盤の完全製作に成功するなど発展がみられた。また、水力発電が本格的に始まり、電力事業が発展して、大都市ではほとんどの家々に電灯が普及するようになった。

軽工業部門でも、綿糸紡績・製糸・織物·製紙・製糖業などが引き続き発展を示した。紡績業では大企業同士の合併が行われて、寡占かせん化が進んだ。綿糸生産との兼営で綿布の生産も盛んに行われるようになり、満州・朝鮮市場に進出を強めて、イギリス綿布・アメリカ綿布と対抗した。また、これまで手織機ておりばたによるごく小規模な問屋制家内工業が行われていた農村の綿織物業では、国産力織機こくさんりきしょっきが使われて中小工場への転換が進んだ。製糸業はアメリカ向けの輸出がいっそうの発展を示し、1909(明治42)年には、その輸出規模は中国を追い越して世界最高となった。

しかし、このように重工業の著しい発展にもかかわらず、工業の中心は依然として練維産業を中心とした軽工業にあったといえよう。

貿易

工業の発展に伴い、貿易額もめざましい伸長をみせた。1902(明治35)年に総額5億3000万円だったのが、日露戦争後の1906(明治39)年には8億4000万円を超え、1912(大正元)年には11億4500万円を超えた。また、対満州の綿布の輸出と大豆粕の輸入、対韓国(朝鮮)の綿布の輸(移)出と米の輸(移)入など、日本経済における植民地の役割が大きくなった。しかし、輸出が活発化したにもかかわらず、軍需品や重工業資材の輸入が増加したため、日露戦争後の貿易収支はおおむね入超で赤字続きとなり、この期間中に出超だったのは1906(明治39)·1909(明治42)年の2年度だけで巨額な外国債の利払いもあって、日本の国際収支はかなり悪化した。

交通・運輸

鉄道事業は順調な伸びをみせ、営業キロ数で民営が官営を大きく上回った。しかし、経営の統合と軍事輸送の便という経済的·軍事的な必要から、政府は1906(明治39)年に鉄道国有法を公布し、日本鉄道·山陽鉄道・九州鉄道など17社4500kmの私鉄を買収し、全国の主要な幹線はすべて国有鉄道となった。

鉄道開設関係地図 民間企業の勃興
鉄道開設関係地図 ©世界の歴史まっぷ

財閥の産業界支配

コンツェルンの形成 産業革命の達成
コンツェルンの形成 ©世界の歴史まっぷ

こうした資本主義の発展に伴い、とくに1907(明治40)年の恐慌を経て、三井・三菱・住友・安田・古河ふるかわなどの財閥が金融·貿易・運輸·鉱山業など多方面にわたって多角的経営を進め、三井財閥が1909(明治42)年に三井合名会社を設立したのをはじめ、各財閥とも持株会社を中心にコンツェルンの形態を整えて産業界を支配するようになった。いわゆる独占資本の形成である。

三井と三菱

財閥のなかでもとくに強カだったのは三井と三菱であった。三井は江戸時代から呉服商・両替商として巨富を蓄え、維新後は政府と結びつき、いわゆる政商として、銀行・物産・炭鉱業などで発展をとげたが、1890(明治23)年以後、紡績・製紙・電機・金属・機械などの企業部門にも進出し、1909(明治42)年に設立された三井合名会社を頂点に、巨大なコンツェルンを形成した。三菱は維新後、岩崎弥太郎が政府の特権的保護を受けて海運業で巨利を収めてその基礎をつくり、造船・保険業を中心に成長し、1893(明治26)年には三菱合資会社を設立し、製鉄・商事・信託・製紙・鉱業などにも手を広げ、1919(大正8)年には銀行部が独立して三菱銀行となり、合資会社のもとに財閥を形成した。

日本資本主義の特色

日本の資本主義は欧米先進諸国が200〜300年を要した過程を、せいぜい半世紀というきわめて短期問で達成し、急速に成立・発展をとげた点に大きな特色がある。そして、資本主義の成立と発展の過程におけるめざましい「高度成長」は世界史上の驚異的な現象といえよう。もとより、こうした急速な発展は、政府の主導による近代産業育成政策のもとですでに産業革命を終わっていた欧米先進諸国から、高い水準の経済制度、技術・知識・機械などを日本に導入し、移植することによってもたらされたものである。産業化の推進には巨額の経費を必要としたが、産業革命達成への過程では、若干の例外を除けば、ほとんど外国資金に頼ることなく、日本国内でその資金が調達されたことも注目に値する。こうした歴史的条件のもとで、日本の急速な資本主義の形成が、その「副作用」として工業と農業、あるいは大企業と中小企業の格差(二重構造)、劣悪な労働条件、さまざまな公害や環境破壊など、いろいろな「ひずみ」を生んだことも否定できないし、それらを利用することによって日本は急速な経済発展をとげた、という見方も成り立つかも知れない。しかし、これらの二重構造や「ひずみ」は、後発的に資本主義をめざす多くの国々におおむね共通の現象であり、しかも、日本の「高度成長」はきわめて例外的であった。そのことを考えれば「ひずみ」や二重構造を理由とする見方では、「高度成長」の秘密を解き明かせないであろう。「高度成長」の秘密をどこに求めるかについては、さまざまな考え方があるが、寺子屋教育の伝統を引き継いだ学校教育による国民教育の普及がもたらした国民の読み書き能力の高さ、教育制度を通じて中下層の庶民が国家の指導階層にまで上昇し得るようなタテの社会的流動性の高さ、「日本人の勤勉性」、宗教的束縛の欠如、そして、国民の大部分が同一民族からなり、同一言語を用い、宗教的対立や民族紛争による流血もあまりないという状況のもとでの日本社会の同質性の高さなど、江戸時代以来の日本の歴史的条件の重要性を考慮することが必要であろう。