転向の時代
国家権力が加える暴力や圧迫による社会主義・共産主義の放棄
自由主義・民主主義的な学問への弾圧強化
転向の時代
1930年代初めの内外の急激な変動、とくに満州事変を直接のきっかけとして、日本国内には国家主義(ナショナリズム)の気運が急激に高まった。内外の現状打破を叫ぶ革新運動は著しく盛りあがったが、その主流となったのは、国家主義(右翼)革新の動きであった。それは天皇が日本の中心であることを強調し、議会(政党)政治・資本主義経済・国際協調外交の変革ないし打破を唱え、軍部と結びつきながら活動を進めた。
こうした動きは、あらゆる分野に大きな影響を及ぼしたが、共産主義、社会主義などいわゆる左翼の陣営のなかからも、国家主義の陣営に転向するものが続々と現れた。日本共産党は1930年代初め、コミンテルンの指導による武装闘争方針に失敗し、当局の厳しい取締りのもとで壊滅状態になったが、1933(昭和8)年には獄中にあった日本共産党の最高指導者佐野学(1892〜1953)・鍋山貞親(1901〜79)らが転向を声明し、天皇制打倒・帝国主義戦争反対という日本共産党の方針と、モスクワに本部をおくコミンテルンの指導のあり方を、一国社会主義の立場から批判してその誤りを認め、天皇のもとに一国社会主義革命を行い、満州事変を民族解放戦争に導く必要性を説いた。これをきっかけに、共産党関係者の大量転向がおこった。
転向の条件
佐野学らの転向声明をきっかけとした地滑り的集団転向の結果、治安維持法で検挙された人々のはぼ90%が転向したという。治安当局は日本共産党などの反体制活動を厳しく取り締まったが、その反面、治安維持法のの最高の刑罰である死刑は原則として適用せず、転向者を再び国家有用の人材としていろいろな分野で登用する方針をとった。1930年代後半には、内閣調査局(のち企画院)などに治安維持法で検挙された経歴のある旧左翼関係者が、しきりに官僚として起用された。これは、同時代の一党独裁国家であるナチス=ドイツやソ連で、反体制・反党活動家などを大量に処刑・粛清したのとは異なる、日本独特のやり力だったと考えられる。
学問の弾圧と統制
年代 | 事件 | 弾圧対象者 | 専攻・地位 | 弾圧の概要 |
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1933 | 滝川事件 (京大事件) | 滝川幸辰 | 刑法学 京都帝大教授 | 著書『刑法読本』が自由主義的学説と批判され、休職となる |
1935 | 天皇機関説問題化 | 美濃部達吉 | 憲法学 東京帝大教授 | 天皇機関説が反国体的と批判。『憲法撮要』など3著書の発禁 |
1937 | 矢内原事件 | 矢内原忠雄 | 植民地政策 東京帝大教授 | 1937年『中央公論』に発表した「国家の理想」が反戦的だと批判され辞職 |
1937 | 第1次人民戦線事件 | 加藤勘十 山川均 鈴木茂三郎 | 衆議院議員 社会主義者 日本無産党書記長 | 反ファシズム人民戦線を企画したとして、左の3人をはじめ検挙 |
1938 | 河合栄次郎の弾圧 | 河合栄次郎 | 経済学 東京帝大教授 | 『社会政策原理』『ファシズム批判』『時局と自由主義』など発禁。休職、起訴 |
1938 | 第2次人民戦線事件 | 大内兵衛 有沢広巳 美濃部亮吉 | 労農派 東京帝大教授 経済学 東京帝大教授 美濃部達吉の長男 | 労農派の経済学者たちが、治安維持法違反で検挙 |
無産政党各派のなかでも、国家社会主義に傾き軍部に接近する動きが顕著になった。社会民衆党を脱党した赤松克麿(1891〜1955)らが、1932(昭和7)年、日本国家社会党を結成したのはその現れであろう。また、社会民衆党は同年、全国労農大衆党と合同して社会大衆党(委員長安部磯雄、書記長麻生久〈1891〜1940〉)を結成したが、翌々年、麻生久が陸軍パンフレット支持の発言をするなど、同党幹部のなかには、軍部と結んで資本主義体制を打破しようとする者も現れた。
軍部の側でも、既成政党(保守政党)をおさえるために無産政党を支援する動きがあり、1936(昭和11)年2月の総選挙で、社会大衆党は従来の5議席から18議席(同党の系統を含めると22議席)と勢力を拡大した。このとき、岡田内閣はひそかに社会大衆党に政治資金を提供するなど、同党を援助したという。一方、社会主義を守り続けていた鈴木茂三郎(1893〜1970)らの日本無産党などは、1937(昭和12)年には政府の弾圧によって活動を停止した。
国家主義の高まりのなかで思想・言論に対する取締りは一段と強化され、マルクス主義はもとより、自由主義・民主主義的な思想や学問も厳しい取締りの対象となった。1933(昭和8)年には、『刑法読本』などを著して自由主義的刑法学説を唱えていた滝川幸辰(1891〜1962)京都帝大教授が大学を追われ(滝川事件)、ついで、1935(昭和10)年には東京帝大で長らく教授をつとめ退官したばかりの憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が、軍部や国家主義団体から日本の国体に反する学説であると攻撃されて、大きな政治問題となる事件がおこった(天皇機関説問題)。
天皇機関説問題
美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の主体は法人としての国家であり、国家の元首である天皇はその最高機関として、憲法の条規にしたがって統治権を行使するという学説であった。これは国家統治の大権が天皇個人に属する無制限の絶対的な権利であるという考え方を否定するもので、明治憲法の起草にあたった伊藤博文らの憲法理解にも通じ、明治末期以来、学会で広く承認されていたばかりでなく、元老や政府首脳も天皇機関説的な考え方に立って政治の運営にあたってきた。ところが、1935(昭和10)年、軍人出身の議員菊池武夫(1875〜1955)が貴族院でこれを非難したのをきっかけに、軍部や国家主義グループは、天皇主権説の立場から統治権の主体は天皇であるとして、天皇機関説は日本の国体にそむく不敬の学説であると攻撃したのである。彼らの真のねらいは天皇機関説攻撃にこと寄せて、岡田内閣とそれを支えている穏健な「現状維持勢力」を打倒・排除することにあった ❶ 。そこで岡田内閣は、やむなく2度にわたって国体明徴声明を出して天皇機関説を否定し、反対派の攻撃をかわしたが、美濃部は貴族院議員を辞任し、その著害は発禁処分とされた。この事件は、明治憲法における立憲主義の理念がほぼ全面的に否定されたことを意味するもので、明治の元勲や政治家たちによって築かれた日本の立憲政治はいわば骨抜きにされたといってもよいであろう。
こうして自由主義までも反国体的思想とみなされるようになり、政府の文化・思想統制と相まってジャーナリズムなどの間にも、欧米文明・思想の摂取に対する批判、日本の伝統的な文化の再評価の気運が高まった。