都市の発展と町衆
洛中洛外図 福岡市博物館本(部分)(福岡市博物館蔵)©Public Domain

都市の発展と町衆

この時代には各地方の城下町と京都などを結ぶ遠隔地商業が活発化したため、港町や宿場町も繁栄し、大きな都市に発展していくところも多かった。日明貿易の根拠地として栄えた堺や博多、摂津の平野、伊勢の桑名や大湊などがその代表的自治都市であった。堺は、イエズス会宜教師によって「ヴェネツィアのように執政官によって治められ、共和国のようだ」といわれたように、きわめて整備された市政運営を行っていた。

都市の発展と町衆

都市の発展(戦国時代)地図
都市の発展(戦国時代)地図 ©世界の歴史まっぷ

戦国時代には、城下町だけでなく、農村手工業の発達や商品経済の発展によって農村の市場や町も飛躍的に増加した。また大寺社だけでなく、新しくつくられた地方の中小寺院の門前町も繁栄した。

門前町

門前町としては、伊勢神宮の宇治・山田、信濃善光寺の長野、延暦寺の門前町で琵琶湖岸の重要な港町でもあった坂本などが代表的である。とくに浄土真宗の勢力の強い地域では、その寺院や道場を中心に寺内町じないちょうが各地に建設され、そこに門徒の商工業者が集住した。

寺内町

寺内町としては、本願寺の所在地であった京都の山科や摂津の石山(現大阪市)をはじめ、加賀の金沢、河内の富田林とんだばやし、大和の今井、和泉の貝塚などがある。寺内町の多くは、周囲を堀で囲み、中核をなす寺院や道場の周りに僧侶や商工業者の居住区がそれぞれ整然と配置されるなど、戦国大名の城下町とよく似た構造をもっていた。

これら寺内町などに新設された市場や町は、不入権・免税権などの特権をもち、自由で平等な商業取引を原則として市座などを設けない楽市らくいちとして存在するものが多く、戦国大名は楽市令(楽市・楽座令)を出してこれらの楽市の特権を追認したり、また領国内の商品流通を盛んにするため、旧来の楽市とは別に新しく楽市を開設したりした。しかし、商品流通がある程度軌道に乗ると、不入権や免税権などの特権を取りあげたり、大名と結びついた有力商人の座を追認するなどして、しだいに介入の度を深めていった。

都市の発展と町衆
都市の発展(戦国時代) ©世界の歴史まっぷ

港町

また、この時代には各地方の城下町と京都などを結ぶ遠隔地商業が活発化したため、港町や宿場町も繁栄し、大きな都市に発展していくところも多かった。港町としては堺や博多のほか、明(王朝)や琉球などとの貿易で栄えた薩摩の坊津ぼうのつ、瀬戸内海水運の要港であった尾道おのみち・兵庫、京都の西日本側の陸揚港であった淀川上流のよど・山崎、同じく京都の東日本側の陸揚港であった琵琶湖岸の坂本・大津、琵琶湖の水運を介して京都との連絡が容易であったことから日本海水運の基地となった小浜おばま敦賀つるが、蝦夷地交易と日本海水運との中継地として栄えた津軽の十三湊とさみなと、太平洋沿岸の桑名・大湊おおみなと江尻えじり・神奈河(神奈川)・品河(品川)などがある。これらの都市のなかには、富裕な商工業者たちが自治組織をつくつて市政を運営し、平和で自由な都市をつくりあげるものもあった。日明貿易の根拠地として栄えた堺や博多、さらに摂津の平野、伊勢の桑名や大湊などがその代表的自治都市であった。堺は36人の会合衆かいごうしゅう、博多は12人の年行司ねんぎょうじと呼ばれる豪商の合議によって、市政が運営されていた。ほかの都市にも年寄、老若ろうにゃく三方さんぽう·公界ぐがいなど、さまざまな呼称で呼ばれる合議機関が存在し、自治都市の性格を備えていた。とくに堺は、イエズス会宜教師によって「ヴェネツィアのように執政官によって治められ、共和国のようだ」といわれたように、きわめて整備された市政運営を行っていた。

蝦夷地交易の拠点、十三湊

津軽半島の西側に十三湖じゅうさんこという湖がある。その十三湖と日本海の間を南から北に細長い砂洲さすが伸びており、そこにかつて蝦夷地交易の要港として賑わい、堺や博多とならんで「三津7港さんつななみなと」の一つにも数えられた十三湊とさみなとがあった。中世にこの港を支配していたのは、鎌倉時代に得宗被官として力を伸ばした豪族安藤(東)氏である。南北朝時代になると、安藤氏はますます大きな繁力をふるったが、やがて南部氏の台頭によって圧迫され、1432(永享40年、南部氏に敗れて蝦夷ケ島に退いた。十三湊もほぼこのころから衰退に向かったとみられるが、近年の発掘調査などによって最盛期の十三湊の姿が明らかにされつつある。それによれば、十三湊には南北に街路が走り、その街路に沿って整然と町屋が建ち並んでいた。町屋の裏手には寺院や館が存在し、町屋の北に伸びる砂洲の先端部分は土塁と濠で守られていることから、安藤氏とその家臣たちの館が存在した区域と考えられている。遺物としては、能登の珠洲すず窯で焼かれた壺・かめ・すり鉢や瀬戸の碗、皿類のほか中国、朝鮮の青磁・白磁なども出土しており、日本海水運の活発さを物語っている。十三湊が衰退するころから、これにかわって上之国かみのくに勝山館かつやまたてをはじめとする「道南十二館」が繁栄を始めるがこれも安藤氏が蝦夷ケ島に渡ったことに関係があるのだろうか。

京都

京都のような政治都市においても、農村での村に対応して、富裕な商工業者である町衆を中心とした都市民の自治的団体であるちょうが生まれた。町とは一つの街路をはさんで向かい合う両側の家々の住民によって構成された団体のことである。

この団体を指す「町」は、「マチ」とは読まず「チョウ」と読んだ。

このころの京都は上京かみぎょう下京しもぎょうという二つの大きな市街地(惣町そうちょう)から成り立っていたが、この惣町を構成する最も基本的な単位が町であった。町はそれぞれ独自の町法(町掟ちょうおきて)を定め、住民の生活や営業活動を守ったほか武士や群盗の乱入を防ぐために町の出入口に釘貫くぎぬきと呼ばれる木戸を設けたり、戦時には自衛軍を組織して外敵と戦うなどの自衛活動も行った。さらにいくつかの町が集まつて町組ちょうぐみと呼ばれる組織がつくられたが、これらの町や町組は、それぞれ町衆のなかから選ばれた月行事がちぎょうじの手によって自治的に運営された。上京と下京という二つの惣町は、このような惣町一町組一町という重層的な内部構造をもっていたのである。応仁の乱後、戦火で焼かれた都市京都は、これらの富裕な町衆によって復輿された。祇園社(八坂神社)の祭礼であった祇園祭(祇園会ぎおんえ)も町を母体とした町衆の手によって再興され、祭の最大の出しものである山鉾やまほこの巡行も各町の出費で行われたように、それは町衆たちの祭りとなっていったのである。