ヨーク朝 ホロウ・クラウン/嘆きの王冠 – ヘンリー六世
ヨーク家の白薔薇 @Wikipedia

ヨーク朝


ランカスター朝

テューダー朝

ヨーク朝 A.D.1461〜A.D.1485
イングランド王国の王朝。プランタジネット朝エドワード3世(イングランド王)の四男エドムンド・オブ・ラングリー(初代ヨーク公)のヨーク家が、ランカスター朝の王位継承が不当なものとして1455年にバラ戦争を起こして勝利し、1461年にヨーク家のエドワード4世(イングランド王)が即位してヨーク朝を開いた。一時ランカスター家のヘンリー6世が復位するが、反撃。ランカスター家とヨーク家の和解によるテューダー朝が成立した。

ヨーク朝

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容

薔薇戦争とイギリスの集権化
イギリスでは百年戦争終結後まもなく、王位継承をめぐって国内貴族を2分する内乱、バラ戦争(1455〜1485)がおこった。
1455年、エドワード3世(イングランド王)の曾孫ヨーク公リチャード(のちのリチャード3世(イングランド王))は、ランカスター家に対してヨーク家の王位継承権を主張して決起した。百年戦争のために大量の家臣団を抱えて不満を持つ有力貴族は、それぞれランカスター家ないしヨーク家について、散発的ながらも30年にわたり戦いをくりひろげた。戦況はヨーク家の優勢に展開し、リチャードの戦死後その子エドワード4世(イングランド王)によりヨーク朝が開かれた(1461)。
百年戦争とバラ戦争に関する系図
百年戦争とバラ戦争に関する系図 ©世界の歴史まっぷ

その後ランカスター派は一時勢力を盛り返し、ヘンリー6世(イングランド王)を復位させた(1470〜1471)が、まもなく態勢を立て直したヨーク派の前に敗れ去った。しかしエドワード4世(イングランド王)の死(1483)後内乱が再発、ランカスター家の血をひくヘンリー・テューダー(リッチモンド伯)は、衆望を担ってヨーク朝の新王リチャード3世(イングランド王)と戦い、ボズワースで彼を敗死させた(1485)。まもなく伯はヘンリー7世(イングランド王)を称し、テューダー朝(1485〜1603)を開いた。そして、翌年ヨーク家の王女エリザベスと結婚し、両派の和解を成立させた。

テューダー朝は、両派の和解の象徴として赤と白のバラを紋章に採用したといわれる。バラ戦争という呼称は後世につけられたものだが、それはここに由来すると考えられる。

ヘンリー7世(イングランド王)は、封建貴族の勢力を打破するために家臣団を解散、貨幣と度量衡を統一して商品流通の円滑化をはかったほか、国王直属の特別裁判所として星室庁を設置するなど、集権化を推し進めた。こうして、イギリスはテューダー朝の成立とともに中世史に終わりを告げ、絶対王政の時代に移行していった。

詳説世界史研究

家系図

ヨーク朝
ヨーク朝家系図 系図内写真は「ホロウ・クラウン嘆きの王冠」登場人物 ©世界の歴史まっぷ

全体家系図

ヨーク家

1385年にプランタジネット朝のエドワード3世(イングランド王)の四男エドムンド・オブ・ラングリーが初代ヨーク公に叙されたことに始まるプランタジネット家の支流である。
プランタジネット家は後に同じくプランタジネット家分家のランカスター家に取って代わられたが、ヘンリー6世(イングランド王)期の王権の低下に乗じてリチャード・プランタジネット(第3代ヨーク公)がイングランド王位を要求し、1455年にランカスター派と内戦(バラ戦争)に突入した。
バラ戦争中にヨーク公リチャード自身は敗死するが、結局ヨーク派はランカスター派の放逐に成功し、1461年にヨーク派によるヨーク朝が成立する。
ヨーク朝は3人の王を出したが、1485年のバラ戦争最後の戦闘であるボズワースの戦いでリチャード3世(イングランド王)がリッチモンド伯ヘンリー・テューダーに敗れて戦死してヨーク朝は滅亡し、バラ戦争も終結した。
リッチモンド伯はヘンリー7世(イングランド王)として即位し、イングランド王位はテューダー朝に引き継がれた。

エドワード3世の王位請求権

エドワード3世(イングランド王)の四男でヨーク家の始祖エドマンド・オブ・ラングリー(初代ヨーク公)には、エドワード・オブ・ノリッジとリチャード・オブ・コニスバラ(ケンブリッジ伯)の2人の息子がいた。エドワード・オブ・ノリッジは1402年に公爵位を継承したが、子孫ができぬままに1415年10月のアジャンクールの戦いで戦死した。
リチャード・オブ・コニスバラは、1415年6月にサウザンプトンの陰謀事件でランカスター朝ヘンリー5世(イングランド王)に対する反逆罪で処刑された。だがリチャード・オブ・コニスバラ(ケンブリッジ伯)はアン・ドゥ・モーティマーと結婚しており、後継ぎとなるリチャード・プランタジネットがいた。こうしてリチャード・プランタジネットは伯父エドワードのヨーク公領と父リチャードのケンブリッジ伯領を継承する事になった。

アン・ドゥ・モーティマーとヨーク家

ロジャー・モーティマーは、トマス(第2代ランカスター伯)らと共に、プランタジネット朝エドワード2世(イングランド王)に反乱を起こして政権を奪い、王妃イザベラ・オブ・フランスと一時期イングランドの政治を掌握した。1327年にエドワード2世を廃位、息子のエドワード3世を即位させ、エドワード2世を死ぬまで監禁した。自身は初代マーチ伯に叙任された(ロジャー・モーティマー(初代マーチ伯))。
しかし、ウェールズに勢力を伸ばしたことと、王ロバート1世(スコットランド王)の独立の承認及びシャルル4世(フランス王)との和睦などで周囲の不満が増大した。1330年にエドワード3世(イングランド王)の叔父のエドマンド・オブ・ウッドストック(初代ケント伯)を処刑したことにより、イザベラと共にエドワード3世派に捕らえられ、イザベラは助命されたが、ロジャーは「悪名高き罪」によりタイバーン刑場で11月29日に絞首刑となり、遺体はバラバラに切断された。
ロジャーの死後、マーチ伯爵位は消滅したが、1348年に同名の孫ロジャー・モーティマーは、エドワード3世(イングランド王)からマーチ伯に叙任され、復活した。

ロジャー・モーティマー(第4代マーチ伯)の娘アン・ドゥ・モーティマーが、エドマンド・オブ・ラングリー(初代ヨーク公)の子リチャード・オブ・コニスバラ(ケンブリッジ伯)と結婚し、生まれたのがリチャード・プランタジネットである。リチャード・プランタジネットは伯父エドワードのヨーク公領と父リチャードのケンブリッジ伯領を継承し、財産、爵位、王位継承権が揃っていた。

さらにアン・ドゥ・モーティマーはリチャード2世の推定相続人であった弟のエドマンドが1425年に死去すると、マーチ伯領を継承した。こうしてリチャード・プランタジネットは父と伯父とマーチ伯の大きな領土を相続した王位継承権者となった。

ヨーク朝の統治

エドワード4世として即位したエドワードだが、その統治の初期はサマセット公の息子ヘンリー・ボーフォートらランカスター派の残党による反乱の鎮圧に費やされた。それが落ち着いた頃に、エドワードの妃問題を契機として、エドワードを国王に押し上げたウォリック伯リチャード・ネヴィルまで離反した。ウォリック伯はマーガレット・オブ・アンジュー(前国王ヘンリー6世の王妃)、クラレンス公ジョージ(エドワード4世の弟でウォリック伯の娘婿)と手を結んで1470年に前国王ヘンリー6世の復位に成功したが、翌1471年にはエドワード4世が復位してヘンリー6世はロンドン塔で殺された。

1483年にエドワード4世が死去すると、王位は12歳の息子であるエドワードが継いだが、少年王の摂政となったエドワード4世の弟グロスター公リチャードはエドワード5世をその弟のヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーと共にロンドン塔に監禁した。塔に入れられて以降、王子たちは消息を絶った。

議会は「王たる資格[3]」という文書の中で、前王エドワード4世の結婚は向こうであり、そのため2人の王子は庶出であり、グロスター公リチャードこそが正当な王位継承者であると宣言した。1483年7月、グロスター公が即位してリチャード3世となった。

歴代国王

  • エドワード4世(イングランド王)(1461年〜1470年、1471年〜1483年)
  • エドワード5世(イングランド王)(1483年)
  • リチャード3世(イングランド王)(1483年〜1485年)

ヨーク朝が登場する作品

ホロウ・クラウン/嘆きの王冠

ヨーク朝 ランカスター朝 ホロウ・クラウン/嘆きの王冠 - ヘンリー六世
ホロウ・クラウン/嘆きの王冠 – ヘンリー六世 © 2015 Carnival Film & Television Limited. All Rights Reserved.
DVD

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