飛鳥寺 飛鳥文化
飛鳥寺本堂 Source Wikipedia

4. 飛鳥文化

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飛鳥文化

推古朝を中心とする時代の文化を、当時の宮の所在地を冠して飛鳥文化と呼んでいる。
飛鳥文化の特色は、当初は渡来人や蘇我氏など限られた人々によって信仰されていた仏教が、国家の保護を受けるようになって広く浸透し、最初の仏教文化と称すべき状況にいたった点に求められよう。594(推古天皇2)年には仏教興隆の詔が出され、仏教が政治の基本に据えられた。

飛鳥文化

仏教

推古朝を中心とする時代の文化を、当時の宮の所在地を冠して飛鳥文化と呼んでいる。
飛鳥文化の特色は、当初は渡来人や蘇我氏など限られた人々によって信仰されていた仏教が、国家の保護を受けるようになって広く浸透し、最初の仏教文化と称すべき状況にいたった点に求められよう。594(推古天皇2)年には仏教興隆の詔が出され、仏教が政治の基本に据えられた。

仏教の普及に大きく寄与したのは、蘇我氏と厩戸王(聖徳太子)とであった。厩戸王は、自ら「三経の義疏さんぎょうのぎしょ」という、法華ほけ経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経の三つの教典の注釈書を著したと伝えられるなど、仏教に対して深い理解をもっていたとされる。

氏寺

大王家や諸豪族は、古墳にかわってその権威を示し、うじの政治的結集の場とするために、きそって氏寺うじでらを建立した。

飛鳥文化 律令国家の成立 法隆寺 律令国家の形成 飛鳥時代
法隆寺金堂・五重塔・中門・歩廊

蘇我馬子が発願し、朝廷の保護を受け、588年に建立が始まった飛鳥の飛鳥寺(法興寺)、厩戸王の発願によると伝えられ、593年に建立された難波の四天王寺や、607年に建立された斑鳩いかるが斑鳩寺(法隆寺秦河勝はたのかわかつの発願により603年に建立された山背やましろ広隆寺などがその代表的な例である。
その他、飛鳥をはじめとする全国各地に、礎石の上に丹塗にぬりの巨大な柱をおき、屋根を瓦で葺いた、これまでの倭国の建築様式とはかけ離れた規模と様式をもつ寺院が、続々と建立された。
そして639(舒明天皇11)年には、百済大寺くだらおおでらの造営が始まった。これは大王が造営した初めての寺院として、大きな意義をもつ。

奈良県桜井市の吉備池廃寺きびいけはいじは、『日本書紀』にみえる百済大寺の遺構と推定されている。一辺32mの基壇の上に建っていた塔は、高さ80m弱の九重塔と復元され、飛鳥寺や山田寺、法隆寺西院伽藍がらんと比べて、格段の規模をもっている。
蘇我氏の本拠地である飛鳥に建てられた飛鳥寺に対して、舒明天皇は巨大な王権の寺院をつくろうとしたとみられる。

法隆寺再建論争

『日本書紀』は、法隆寺が天智天皇9(670)年に罹災りさいし、一屋も残さず焼亡したという記事を載せている。
この記事と現存する法隆寺西院の建築物との関係をめぐっては、明治以降、論争が続いた。
しかし1939(昭和14)年、現在の中門の南東から四天王寺式の伽藍がらん跡が発掘されたことから(若草伽藍跡)、これが厩戸王によって建立された当初の斑鳩寺であり、現在の法隆寺西院の建築物は、白鳳期に再建されたものであるとの説が有力になった。

しかし、当時の支配者層のすべてが、仏教の深遠しんえんにして複雑な教理をよく理解していたとはとてもいえない。厩戸王や一部の渡来人を除けば、一般には、仏教は祖先の冥福を祈ったり、病気の回復を願うための、呪術の一種として認識されていたようである。

仏像

仏教が人々の心に深い印象を残したのは、その世界宗教としての教理よりも、壮大な寺院建築や、おごそかに輝く仏像によるところが大きい。当時の仏像彫刻(飛鳥仏)は、中国の北朝の様式を受け継いだもの(北魏様式)と、南朝の様式を受け継いだもの(南梁様式)とに分類できる。それぞれ、高句麗・百済を経て倭国に伝わったものであろう。

銅造釈迦如来坐像
飛鳥寺 銅造釈迦如来坐像
Source Wikipedia
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺金堂釈迦三尊像 Source Wikipedia

北魏様式は、鞍作鳥くらつくりのとり止利仏師とりぶつし)とその系統の手になるもので、整った厳しい表情のなかに、古式微笑をたたえ、超現実的・象徴的な印象を与える。最古の仏像とされる飛鳥寺の飛鳥大仏釈迦如来像(金銅像であるが後世の補修が多い)(重要文化財指定名称:銅造釈迦如来坐像)をはじめ、法隆寺金剛堂の法隆寺金堂釈迦三尊像(金銅像)(国宝名:銅造釈迦如来及両脇侍像〈止利作/(金堂安置)〉)、法隆寺夢殿ゆめどの救世観音像ぐぜかんのんぞう(木像)などが、その代表的な例である。

木造菩薩半跏像
木造菩薩半跏像 Source: pinterest

木造弥勒菩薩半跏像
広隆寺木造弥勒菩薩半跏像 Source Pinterest

一方、南梁様式は、温かみがあって崇高な感じを受ける。法隆寺百済観音像(木造)が、その代表作である。
これに写実的な味わいをつけたのが、中宮寺の木造菩薩半跏像もくぞうぼさつはんかぞう(木像)や広隆寺の半跏思惟像はんかしゆいぞう(木像)である。いずれも慈愛に満ちた美しさをもっている。

絵画

絵画では、610年曇徴どんちょうが高句麗から紙・墨の製法、彩色の技法を伝えた。当時の遺品としては、法隆寺の玉虫厨子たまむしのずし須弥座しゅみざ絵(施身聞偈図せしんもんげず捨身飼虎図しゃしんしこず)、及び扉絵がある。

工芸品

工芸品としては、法隆寺の玉虫厨子のほか、中宮寺の天寿国繍帳てんじゅこくしゅうちょうがある。これは厩戸王を追悼するために、下絵の上に色糸で刺繍をしたもので、貴重な銘文も施されている。

これらの美術工芸品は、その技法や構図はもちろんのこと、各所にみられる忍冬唐草にんどうからくさ文様やペガサス(天馬てんま)など(獅子狩文様錦)、朝鮮・中国をはじめ、当時の西アジア・インド・ギリシアの文化にもつながる特徴をもった、国際的な文化の影響を受けていることが特徴である。

また、外国の文化や技術の導入は、わが国の社会や政治にも大きな変化をもたらした。
曇徴どんちょうが紙と墨の製法を伝えたことによって、物事を記録するということが始まったし、602年に渡来した観勒かんろく暦法や天文地理学の書を伝えたことは、物事を年月の経過にそって記録することができるようになったことを意味する。
これらは、単に歴史書の成立や政務のあり様に変化をもたらしただけではなく、日本人の意識そのものに根本的な変革をもたらすことになった。

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