原内閣と政党政治 パリ講和会議
原敬内閣 ©世界の歴史まっぷ

パリ講和会議

パリ講和会議で日本は、山東間題・南洋諸島間題とならんで人種差別禁止の条項を国際連盟規約のなかに明文化することを提案したが、アメリカ・イギリス・オーストラリアの強い反対にあって不採択となった。

パリ講和会議

第一次世界大戦は、いわゆる総力戦となって、きわめて大規模で深刻な様相を呈したが 、1917年のアメリカの連合国側への参戦や、ドイツ国内経済の破局による国民生活の困窮化などによって、同盟国側の敗色はしだいに濃厚となった。1918年1月、アメリカ 大統領ウィルソン( Wilson, 1856〜1924 )は、いわゆる平和原則 十四カ条(十四カ条の平和原則)を発表して和平を提唱した( パリ講和会議とヴェルサイユ条約(世界史))。そのころ、ドイツ国内ではロシア革命の影響を受けて、労働者のストライキがしきりにおこり、革命運動が高まった。そして、1918年11月にはドイツ帝政が倒れ、ドイツ側の敗北によって第一次世界大戦は終わりを告げた
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第一次世界大戦はそれまでにない大規模なもので、動員総兵力約6500万、死者数1800万、戦費合計1860億ドルに及んだ。

オーストリアでも敗戦とともに帝政は崩壊し、ハプスブルク王朝は終わりを告げた。

1919年1月からパリで対独講和会議(パリ講和会議)が開かれ、日本は西園寺公望さいおんじきんもち(首席全権)・牧野伸顕まきののぶあき (1861〜1949)ら5人の全権を中心とする代表団を派遣した。会議はイギリス・アメリカ・フランス・イタリア・日本の5大国、とりわけ英米仏の3大国の主導権のもとに進められ、同年6月にヴェルサイユ条約が締結された。この条約は、はじめウィルソンが理想主義的な原則をかかげたにもかかわらず、夷際には大国の利害に基づくもので、敗戦国であるドイツに対する条件ははなはだ過酷であった。すなわち、ドイツは、(1)国土の一部とすべての海外植民地を失い、(2)巨額の賠償金支払い義務を負わされ、(3)空軍の保有を禁止され、また陸海軍も大幅な軍備制限を受けた。

対独賠償問題

ドイツの賠償金額は、1921年に1320億金マルクと定められたが、その後、何度か減額·支払い延期が認められ、1929年には358億金マルクに減じられた。しかし、それもそのころの世界恐慌の襲来によって支払い不能におちいり、ヒトラ一政権成立後、ヴェルサイユ条約は破棄されて、うやむやに終わってしまった。しかしドイツは第二次世界大戦後に、第一次世界大戦の賠償金の残額のすべてを支払った。

条約はさらに民族自決の原則によってヨーロッパの国境改定を定め、ポーランド・チェコ・ハンガリー・ユーゴスラヴィア・フィンランドなどの独立が認められ、新国家 が誕生した。しかし、この原則はアジアやアフリカの植民地には適用されなかった。この条約に基づいて形成されたヨーロッパの新しい国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれている。

フィンランド・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(ユーゴスラヴィア)

日本はパリ講和会議において、山東半島の領土権を中国に返還することは承認したが、ドイツのもっていた山東省の権益を引き継ぐことを認めさせ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟から委任統治することになった。また、日本は人種差別禁止の取決めを国際連盟の規約のなかに取り入れるよう提案し、多くの国々の賛成を得たがアメリカ・イギリスなどの大国の反対にあって、その提案は採用されなかった。

日本が山東省の旧ドイツ権益を継承したことに対して、中国では激しい反対運動がおこった。1919(大正8)年5月4日、北京では学生を中心とする大規模なデモがおこり、ヴェルサイユ条約調印反対、「打倒日本帝国主義」の声が高まり、日本商品のボイコット(日貨排斥にっかはいせき)が全国的に広まった。これがいわゆる五・四運動 五・四運動(世界史))である、こうした国内の反対のため、中国代表は、結局ヴェルサイユ条約には調印しなかった。

また朝鮮においても同年の初めころから日本の植民地支配に反対し、民族独立を求める気運が高まりつつあったが、同年3月1日、京城(ソウル)において「独立万歳」を叫ぶ集会が行われ、独立運動はたちまち朝鮮各地に広まった(三・一独立運動または万歳事件)。日本は軍隊や警察を出動させてその鎮圧にあたったが、一方では、朝鮮総督の資格を現役の軍人から文官にまで拡大し、憲兵警察を廃止するなど、民族運動の高まりに融和的姿勢をとった。

三・一独立運動と文化政治

日本の植民地となった朝鮮では、朝鮮総督府による武断的な統治や同化政策に強い反発がおこっていた。第一次世界大戦後、民族自決という国際世論の高まりにも影響されて、朝鮮では民族独立を求める声が強くなった。1919(大正8)年1月、前韓国皇帝高宗(李太王)が死去すると、日本による毒殺との噂が流れ、民族感情を刺激した。同年年2月、朝鮮の在日留学生が東京で独立宣言を発表し、ついで高宗の葬儀を前に同年年3月1日、ソウルのパゴダ公園(現タプッコル公園)で、多くの民衆を前に33名の宗教家が署名した独立宣言の朗読が行われた。これをきっかけに、朝鮮の各地で独立を求める集会やデモ、労働者たちのストライキ、学生たちの同盟休校が相ついで展開された。日本は軍隊と警察力を動員してその鎮圧にあたったが、運動ははしばしば騒擾事件に発展した。武力鎮圧による朝鮮側の死者は、7000人以上に達したといわれる。日本政府はその後、朝鮮総督の任用資格を現役の軍人から文官にまで拡大し、憲兵警察を廃止するとともに、新任の斎藤実さいとうまこと(1858〜1936)総督のもとで「文化政治」を実施し、灌漑施設の拡充・耕地整理などによる産米増殖計画を推進するなど、朝鮮統治に宥和的姿勢をとった。

パリ講和会議と人種差別撤廃問題

パリ講和会議の5大国の一つとして最高委員会の構成国となった日本は山東間題・南洋諸島間題とならぶ3大要素の一つとして、国際連盟加盟国は外国人に対し人種や国籍による差別を設けてはならないとする人種差別禁止の条項を国際連盟規約のなかに明文化することを提案した。これは、アメリカやカナダでの日本人移民排斥への対応策という意味もあったが、そこには、国際社会て欧米列強の仲間入りを果たした証を求める日本の国民感情が反映されていた。パリの日本全権団は牧野伸顕を中心に、各国の代表たちと折衝を重ねたが、日本案の採択は困難だった。というのは、アメリカでは人種差別問題は自国内の間題であり、日本の提案は内政干渉にあたるという強い反発かあり、イギリスも、自治領内、とりわけ白豪主義はくごうしゅぎを基本政策とするオーストラリアの強い反対にあって、両国とも日本案には賛成しなかった。日本はさらに、文言を緩和してその趣旨を連盟規約の前文に人れるよう提案し、国際連盟委員会て16カ国のうち11カ国の賛成を得たが、英米両国は依然として反対し、重要事項は満場一致を必要とするという原則により、緒局、人種差別撤廃案は不採択となったのである。

世界史対照略年表(1880〜1960)

世界史対照略年表(1880〜1960)
世界史対照略年表(1880〜1960)©世界の歴史まっぷ
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