弥生文化の成立
日本列島で1万年近く続いた縄文時代が終わりに近づいた紀元前5世紀初めころ、土地を耕して水をはり、米をつくる水田稲作農耕が始まった。
最初にそれが行われたのは、朝鮮半島に最も近い北部九州であった。水田稲作はすぐに定着し、西日本では紀元前5世紀頃に、水稲耕作を基礎とする農耕文化が成立した。これを弥生文化と呼んでいる。
弥生文化の成立
日本列島で1万年近く続いた縄文時代が終わりに近づいた紀元前5世紀初めころ、土地を耕して水をはり、米をつくる水田稲作農耕が始まった。
最初にそれが行われたのは、朝鮮半島に最も近い北部九州であった。水田稲作はすぐに定着し、西日本では紀元前5世紀ころに、水稲耕作を基礎とする農耕文化が成立した。これを弥生文化と呼んでいる。
この紀元前5世紀ころから紀元3世紀の時期を弥生時代と呼ぶが、弥生時代は土器の変遷や大陸よりもたらされた青銅器の年代などから、前期(紀元前5〜紀元前2世紀)、中期(紀元前2世紀〜紀元1世紀)、後期(1〜3世紀)の3期に区分される。水田稲作が始まった縄文時代晩期の紀元前5世紀を弥生時代早期とする意見もある。
弥生時代の3期区分
紀元前5世紀 | 弥生前期 | 北部九州で紀元前700年ころ始まった水稲耕作が西日本に伝わり、やがて東北地方の一部まで伝わる(砂沢遺跡)。湿地が中心。木の鍬・鋤を使用。 環濠集落出現(前期〜後期) |
紀元前2世紀 | 弥生中期 | 高地性集落出現(中期〜後期) 小国の分立(『漢書』地理志, 『後漢書』東夷伝) 墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡) |
紀元前1世紀 | 弥生後期 | 石器は減少し、鉄製工具普及。 鉄製の刃の鍬・鋤を使用 乾田の開発 邪馬台国連合の形成(『魏志』倭人伝) 大型の墳丘墓出現 |
3世紀 |
弥生時代の始まりの年代
北部九州で水田稲作が始まった頃の土器に付着した炭化物を測定し、炭素14年代を補正して実年代を割り出したところ、紀元前900年頃という結果がでた。
弥生時代前期初めの年代はおよそ紀元前800年であり、それらが正しいとすれば、弥生時代の始まりはこれまでの推定よりも500年ほどさかのぼることになる。しかし、この新説には賛否両論がある。
遠賀川文化
弥生時代前期の西日本の文化を、遠賀川文化と呼んでいる。遠賀川文化は、福岡県立屋敷遺跡の遠賀川の川底からみつかった遺物に基づいて名づけられた。遠賀川文化の指標は遠賀川式土器であり、へら先でつけた簡素な文様を特徴とする。
遠賀川式土器は、壺・甕・鉢・高坏からなり、このセットは福岡県から愛知県にまで及んでいる。
愛知県の遠賀川文化の遺跡としては、名古屋市西志賀貝塚などが知られているが、その土器を福岡県の土器と比較しても、その間の距離を感じさせないほど均一であり、弥生文化が西日本一帯に急速に広まったことを物語っている。遠賀川式土器の特徴をもった土器は、青森県にいたる東北地方の日本海沿岸からも見出され、弥生時代前期に東北地方にまで遠賀川文化の影響が及んでいたことが確かめられた。また、中部高地や関東地方からも遠賀川式土器はみつかっている。しかし、東北地方の土器は遠賀川式土器そのものではないことや、関東地方から出土する遠賀川式土器の量もわずかであること、遠賀川文化に特徴的な朝鮮半島に起源のある磨製石器類がほとんど伴わないことなどから、こうした地方の弥生時代前期の文化を遠賀川文化とは呼ばない。
弥生文化の最も大きな特徴は、水稲を基礎とする農耕と、鉄器や青銅器などの金属器の使用である。また、機織り具を用いて布を織ることも始まった。
青銅器が本格化するのは弥生中期以降であり、鉄器は前期末〜中期にならないと出現しない点に注意する必要がある。
これらの技術や道具は、いずれも中国大陸の文化に起源をもつ。
福岡県雀居遺跡では、縄文時代晩期終末にさかのぼる機織り具がみつかった。
佐賀県菜畑遺跡や福岡県板付遺跡からは、縄文時代晩期終わりころの水田跡や田に水を引くための水路の跡などがみつかっている。板付の水田は低湿地でなく微高地に立地しており、灌漑施設を備え、畔で区画するなど、出現の当初から高い技術を用いて水田稲作を行っていたことがわかる。木製農具をつくるための石斧類や稲穂を摘むための石包丁(石包丁は、現代の包丁の役目をもつ石器ではないことに注意する必要がある)は、朝鮮半島南部の青銅器時代前期のものと極めてよく似ている。
石包丁は、現代の包丁の役割をもつ石器ではないことに注意する必要がある。
朝鮮半島南部の青銅器時代前期の始まりはおよそ紀元前1000年紀の前半、終わりは紀元前4〜3世紀とされている。
長崎県や佐賀県など西北部九州を中心に、縄文時代晩期から弥生時代前期に発達した、遺体を埋めた上に大きな石をおいて目印とする支石墓は、朝鮮半島に広く分布する。こうした墓には朝鮮半島のものと同じ形の磨製石鏃や磨製石剣が副葬されたり、それが刺さった人骨がみつかることもある。縄文時代には専用の武器はなかったので、武器とそれを用いた争いも、朝鮮半島からもたらされたといえよう。
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山口県土井ケ浜遺跡は、弥生時代前期の墓地の遺跡であり、これまでにおよそ300体の人骨が発掘された。
それらは縄文時代の人骨よりも平均身長が3〜4㎝高く、顔も高く(縦に長く)、鼻のつけ根や眉間の起伏が弱いなど、大陸の新石器時代人と形質的に近いことが指摘され、それらは渡来系の人々とされている。
九州の弥生人骨のうち、佐賀県東部や福岡県で発見されたものは、長身で顔が高く、顔面の凹凸が少ない渡来系人骨が多い。
長崎県など西北部九州は、低身で顔が低く、ほりの深い縄文系人骨が多い。このことから、渡来系の人々がやってきたのは、主に福岡平野以東だったと考えられている。
弥生土器が縄文土器と異なるのは、高さ30㎝を超える大きな壺形土器がたくさんつくられるようになったことで、それは米などの貯蔵に用いられた。
壺形土器は、煮炊きに使う甕形土器、物を盛る高坏形土器や鉢形土器などとセットで用いられた。
弥生土器は、深鉢と浅鉢の組み合わせが基本である縄文土器よりも、種類が豊富になった。弥生土器には朝鮮半島の無文土器の影響も認められるが、直接弥生土器の祖形になる土器は無文土器に認められないので、農耕生活の影響を受けて縄文土器を変化させ、弥生土器を生み出したと考える人が多い。
最古の弥生土器
最古の弥生土器は、板付遺跡から出土した土器によって名づけられた板付I式土器である。これには、縄文土器の伝統を受け継いだ夜臼式土器が伴う。これらは壺形土器・甕形土器・浅鉢形土器・高坏形土器からなるが、大半を壺形土器と甕形土器が占める。板付I式土器は壺形土器と甕形土器が2対1の割合で構成され、夜臼式土器の壺形土器と甕形土器の割合はおよそ1対2である。
それ以前の縄文土器には壺形土器はほとんど用いられていないので、弥生土器の成立とともに、壺形土器が重要な役割を担うようになったといえる。
その役割としては、種籾といった穀物などの貯蔵が考えられよう。弥生土器の成立した時点で、縄文土器の伝統を受け継いだ土器が伴っているのは、北部九州ばかりではない。
伊勢湾地方でも、この地方で最古の弥生土器である遠賀川式土器に、縄文土器の伝統を受けて貝殻の縁などで粗い文様をつけた条痕文土器が伴う。
関東地方などでは、伊勢湾地方の条痕文土器が影響を与えて弥生土器が成立するので、縄文土器の伝統は西日本に比べて根強い。縄文土器から弥生土器への変化は、地域差があり、複雑である。
弥生文化には、縄文文化の伝統を引いたものも多い。土器づくりの基本技術、狩猟に用いた打製石器、漁労に用いた骨角器、漆を使って容器や装身具を飾る技術、貝殻に穴をあけて腕に通した装身具である貝輪、竪穴住居など、生活の多方面にわたっている。
また、青銅製の小さな鐘が朝鮮半島から伝わるが、弥生人がそれをまねて独自の鐘として製作したのが銅鐸である。
このように、弥生文化で固有に発達した道具や技術もたくさんある。
こうしたことから、弥生文化は、農耕社会を形成していた朝鮮半島南部から、稲や金属器を携えて日本列島に渡ってきた若干の渡来人が、縄文人とともに生み出した文化であると考えられる。
縄文時代後期の遺跡から、籾の痕がついた土器がみつかっている(岡山県南溝手遺跡)ので、すでに縄文人は稲を知っており、栽培していたとも考えられている。
縄文時代早期からアサなどを栽培し、中期にはクリなどを管理していた。
そうした縄文時代の植物栽培が、農耕文化を受け入れる基盤になったのであろう。農耕文化の波及が紀元前5〜紀元前4世紀にみられるのは、中国大陸が戦国時代(紀元前403〜前221)になり、戦乱の余波が朝鮮半島に及び、日本列島にまで人の移動を促した結果とみる意見がある ❶。
❶ この考え方も、炭素14年代の較正による弥生時代開始年代の新解釈を是認すれば、別の契機を想定せざるを得ないことになる。
稲の伝播ルート
中国で最も古い稲作農耕遺跡は、長江下流域の浙江省河姆渡遺跡などで、紀元前5000年にさかのぼる。
その後、稲作農耕は拡散し、日本列島にも伝わる。その伝播ルートに関しては、5つほどの説があり、さまざまに議論されているが、決着をみていない。しかし、黄河より北には新石器時代の栽培稲の出土例がないこと、日本列島に最初に現れる農耕文化の道具が朝鮮半島南部と関連が深いこと、それがまず北部九州にみられること、日本の栽培稲は寒さに強いジャポニカ種(短粒稲)で、熱帯性のインディカ種(長粒稲)がみられないなどの点から、稲は長江下流域から北上し、寒さに強い品種が優勢になって、遼東半島ないし山東半島から朝鮮半島へ伝播し、朝鮮半島南部を経て北部九州へ伝わったとする説が有力視されている。
弥生土器と弥生時代
1884(明治17)年、東京本郷の弥生町(現、文京区弥生2丁目)の向ヶ岡貝塚から一つの壺形土器が発見された。薄く堅く、明るい色に焼かれた文様が少ないこの土器は、それまでに発見されていた縄文土器と違う特徴をもつことから、「弥生式土器」と呼ばれた。
その後、弥生土器は縄文土器の上の層から出土したり、青銅器とともに出土することが確かめられ、弥生土器が用いられた時代という意味で、弥生時代が設定された。
しかし、縄文土器と弥生土器とは製陶技術の点からいうと、轆轤を用いず、野焼きであるなど本質的な変化はなく、明確には区分できない。
したがって、時代を分ける指標にはふさわしくないことが主張された。そこで縄文時代と弥生時代は、採取経済か農耕経済かという経済基盤の違いをもとに区分されるようになり、それぞれの時代の土器を、縄文土器、弥生土器と呼ぶのが一般的になった。
続縄文文化と貝塚文化
弥生時代になっても北海道には稲作は伝わらず、採取・狩猟・漁労を基礎とする縄文時代以来の文化が継続し、縄文土器の伝統を強く引いた土器が用いられた。
約2300年前から約1400年前まで、北海道で続いたこの文化を続縄文文化と呼んでいる。
続縄文文化の海岸地域ではとくに漁労文化が発達し、恵山町恵山貝塚や伊達市有珠モシリ遺跡では、漁労具などの見事な骨角器が出土している。有珠モシリ遺跡では、奄美・沖縄などの南西諸島から運ばれたと考えられるイモガイなど南海産の貝でつくった腕輪が出土しており、日本海を通じて広大な交流が繰り広げられていたことがわかった。
このことは、続縄文文化が弥生文化から孤立したものではないことを示している。また、続縄文文化の後半には東北地方の弥生文化との交流も活発になった。
北海道では7世紀以降になると、擦文土器を伴う擦文文化が成立する。この文化も
ヒエなどの栽培を多少行うが、
漁労・狩猟に基礎をおく文化である。
奄美・沖縄などの南西諸島もやはり稲作文化を受け入れず、採取・漁労文化が日本の平安時代に平行する
11〜12 世紀に始まる
グスク時代まで続いた。これを貝塚文化と呼んでいる。
貝塚文化はその名が示すように漁労活動が活発化し、とくに珊瑚礁内の漁労に比重がおかれた。それとともに、ゴホウラやイモガイなど南海産の貝の採取活動が活発になったが、それは北部九州で盛んにつくられた貝輪の原料の需要を満たすためであった。その見返りとして、米や鉄などを入手したと考えられている。貝塚文化を支えた経済活動の一つが、そうした貝の交易であったことは間違いない。
樹木の年輪から測る弥生時代の年代
中国大陸で製作された青銅鏡や貨幣などが日本にもたらされ、弥生土器とともに出土しており、ある程度年代がはっきりしている。そうした実例をいくつも集め、弥生土器の変遷とともに検討して、弥生土器に年代を与え、それによって弥生時代の年代を推し測る方法がとられてきた。この方法は土器の変化の順番を基準とするので、実年代を確定しにくい欠点がある。
これに対して、すでに紹介したように、炭素14に基づいて年代を測る方法がある。近年では、遺跡から出土するスギなどの材木の年輪を計測し、その変動の標準パターンを過去にさかのぼって作成し、そのパターンと出土木材の年輪を対照することにより実年代を測定する、年輪年代学が急速に進歩している。
大阪府池上曽根遺跡から出土した建物の柱を測定したところ、ある柱の伐採年代が紀元前52年とはじき出された。一緒に出土した土器は、それまで1世紀とされていたもので、弥生時代の年代の再検討を迫るものと注目された。
旧石器・縄文・弥生文化の特色の比較
旧石器・縄文・弥生文化の特色
旧石器文化 | 縄文文化 | 弥生文化 | |
自然 環境 | 乾燥・寒冷=針葉樹林 | 湿潤・温暖=東日本は落葉広葉樹林、西日本は照葉樹林 海面上昇(縄文海進)で入江が多くなる |
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大型動物=ナウマンゾウ・オオツノジカ・マンモス・ヘラジカ | 中・小型動物=ニホンシカ・イノシシ・鳥類 | ||
経済 ・ 社会 | 狩猟・採取 | 採取・狩猟・漁労 貧富・身分の差はまだない | 水稲耕作・採取・狩猟・漁労=豚の飼育なども貧富・身分の差が発生=各地に小国の分立 |
道具 | 石器時代=打製石器 打製石斧・ナイフ形石器・尖頭器・末期に細石器など | 石器時代=打製石器と磨製石器 石鏃・石匙・石皿・磨製石斧 石槍・弓矢=中・小型動物を捕らえる 骨角器=釣針・銛・やす・土錘・石錘, 丸木舟 貯蔵穴=採取した木の実などの保存 | 鉄器時代=鉄器 武器・実用の工具。のちに鉄鎌・鉄斧 青銅器=祭器・宝器・装身具など 磨製石器=磨製片刃石斧・石包丁・紡錘車 木製の鍬・鋤・田下駄、木臼・竪杵 |
縄文土器=低温で焼かれ、厚手・黒褐色・縄目の文様 | 弥生土器=薄手・赤褐色 | ||
住居 ・ 衣服 | 移動=一定の範囲内を移動 簡単なテント式の住居。洞穴・岩陰を一時的に住居として利用 | 定住=竪穴住居(中央に炉を設置。1戸に数人から10人程度) 湧き水の得られる台地上に集落を形成(環状集落が主) 海岸近くの集落には貝塚が見られる | 定住=竪穴住居に住み、掘立柱の高床倉庫を利用(穀物保管) 環濠集落と高地性集落 男は袈裟衣、女は貫頭衣を着用 |
墓制 ・ 宗教 | 未解明 | 屈葬=手足の関節を折り曲げて埋葬 共同墓地(貝塚はゴミ捨て場兼埋葬場) アニミズム(精霊崇拝) 土偶・土版・石棒など呪術的遺物 抜歯や叉状研歯の風習 | 伸展葬=手足を伸ばして埋葬 九州北部に甕棺墓・箱式石棺墓・支石墓。東日本に再葬墓各地に土壙墓・木棺墓・壺棺墓・方形周溝墓 弥生後期に西日本で大きな墳丘墓 農耕儀礼が発達 |