邪馬台国連合
倭は2世紀の終わりころに大変乱れて、国々は互いに攻撃し合って年が過ぎた。そこで国々が共同で邪馬台国の女王卑弥呼を立てて王としたところ、ようやく乱はおさまり、邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。
邪馬台国連合
中国大陸では、220年に後漢が滅び、北方の魏、南方の呉、西方の蜀が並び立つ 三国時代(中国) を迎えた。この時代の歴史書である『三国志』の中の『魏志』倭人伝 ❶ には、3世紀前半から中葉の倭の情勢がかなり詳しく書かれている。
それによると、倭は2世紀の終わりころに大変乱れて、国々は互いに攻撃し合って年が過ぎた。そこで国々が共同で邪馬台国の女王卑弥呼を立てて王としたところ、ようやく乱はおさまり、邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。
卑弥呼は239年に魏の皇帝に使いを送って、男女の生口(奴隷)10人や織物を献じ、「親魏倭王」の称号とその金印紫綬、さらにさまざまな織物、金8両、五尺刀2口、銅鏡100面などを与えられた。
卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑はす」とあり、巫女として神の意志を聞くことに優れていたらしく、長じても夫はなく、政務は弟がとったという。まだ神を祀ることと政治が未分化の祭政一致の段階であったことがうかがわれる。
社会には、大人と下戸の明確な身分差があり、下戸が大人と道で会ったときにはあとずさりして道端の草むらに入り、話をする場合には、うずくまったり、あるいはひざまずいて、両手を地面につけたという。大人はみな4〜5人の妻をもち、下戸でも2〜3人の妻をもつ者もいた。
倭人の間には、泥棒もいないし、訴訟も少ない。法を犯した場合は、軽い者ではその妻子を取り上げ、重い者ではその家族や一族を殺した。
人々に租・賦の税を納めさせ、それらを収納するための邸閣がある。
国々には市場があって、人々は有無を交換し合っている。
邪馬台国は、それより北方の国々に対し、とくに一大率という役人をおいて監視させており、それは常に北部九州の伊都国に置かれている。
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正始8(247)年、卑弥呼は、魏の植民地であった帯方郡に使いを送り、もとから不和であった南の狗奴国との戦いの有様を報告している。
その後、卑弥呼が亡くなったとき、倭人たちは、直径百余歩の大きなつかをつくり、百余人の奴隷が殉葬された。
卑弥呼の後継者として男の王を立てたが、国中が服従せず、互いが殺し合った。そこで再び卑弥呼の宗女の壱与(壹與)という13歳の女子を立てて王としたところ、国中はようやくおさまったという。
この30国29
国ばかりの小国連合の中心となった邪馬台国の所在については、北部九州に求める説と、近畿地方の大和に求める説が対立している。
近畿説をとれば、すでに近畿地方から北部九州に及ぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちのヤマト政権と直接つながることになる。
また九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、のちのヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したものか、逆に邪馬台国が東遷したものということになる。
いずれをとるかによって、日本列島における国家形成過程の理解が大きく異なるのである。
邪馬台国は、『魏志』倭人伝の記載をそのままたどると九州のはるか南海上に存在したことになる。したがってこれを合理的に解釈するには、九州説の場合は倭人伝の距離の記載を、近畿説の場合は方位の記載を修正することが必要となる。
このことは、『魏志』倭人伝には史料としての限界があることを示しており、この問題の解決には、多くの状況証拠を提出しうる考古学の果たす役割が大きい。
次節に述べる古墳については、出現の当初から近畿を中心に分布することが知られている。従来、古墳の成立については、4世紀のこととされてきたから、3世紀前半の邪馬台国問題と直接関係しないと考えられてきたが、最近では、古墳の出現年代が3世紀後半までさかのぼると考える研究者が多くなり、少なくとも考古学の分野では、近畿説を取る研究者が多くなりつつある。
『魏志』倭人伝にみえる倭人の生活
男子は結髪し、木綿で頭を巻いている。衣服は、横広の布でただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は髪を下げてまげの部分を折り曲げており、衣服は単衣のようにつくり、布の中央に穴をあけて頭を通す貫頭衣である。
人々は、稲や苧麻を植え、桑を栽培し、蚕を飼って糸を紡ぎ、麻糸・絹・綿を産する。
牛・馬・羊などはいない。温暖なため冬も夏も生野菜を食べ、皆はだしで生活している。
家屋を建て、父・母・兄・弟らはそれぞれ寝所を別にしている。男子は大人・子どもの別なくみな黥面(顔の入れ墨)や文身(からだの入れ墨)をしている。
人が死ぬと棺に納め、土を盛り上げてつかを作る。10日間ほど喪に服し、この間、人々は肉食せず、喪主は哭泣し、ほかの人々は歌舞飲食する。埋葬が終わると喪主の一家は水中に入り、みそぎをする。
このように、『魏志』倭人伝には倭人の習俗が詳しく書かれているが、『魏志』の編者が、倭の地を、南に長く連なり中国大陸南部の会稽東冶の東方にあたり、海南島の風俗と共通すると考えていたことが記されており、全てを3世紀の倭の風俗を示すものと捉えてよいかどうかについては疑問も残る。
中国との交渉年表
弥生・古墳時代 中国との交渉
中国 | 日本 | ||||||
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西周 | 前1046 | 前11世紀〜 | 水稲耕作・大陸系石器・支石墓の伝来 板付遺跡(福岡県) | 早期 | |||
春秋時代 | 前770 | 前8世紀〜 | 北九州で支石墓・甕棺墓が現れる | 弥生前期 | |||
吉野ヶ里遺跡のはじまり | |||||||
戦国時代 | 前403 | 前4世紀〜 | 縄文式土器の影響を受けた弥生式土器が現れる | ||||
秦朝 | 前221 | ■環濠集落の出現 | 環 濠 集 落 ・ 高 地 性 集 落 の 発 達 |
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前206 | |||||||
前漢 | 前202 | ||||||
■丘陵の周囲に大きな環濠や墳丘墓を造成 | 弥生中期 | ||||||
百余国に分立・漢に献見す(『漢書』地理志) | |||||||
8 | |||||||
新朝 | 23 | ||||||
後漢 | 25 | ||||||
57 | 倭の奴国の王・後漢に遣使。光武帝より「漢委奴国王」の印綬を賜る(『後漢書』東夷伝) | 弥生後期 | |||||
107 | 倭国王帥升等、生口160人を安帝に献上(『後漢書』東夷伝) | ||||||
147 | 倭国大乱(『後漢書』東夷伝) | ||||||
189 | |||||||
曹魏 | 220 | ■高床倉庫・物見やぐらなどの建設 | |||||
孫呉 | 221 | ||||||
蜀漢 | 222 | ||||||
239 | 邪馬台国女王卑弥呼,魏に遣使。「親魏倭王」の称号と金印紫綬と銅鏡百枚などを賜る。 (『魏志』倭人伝) |
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247 | 卑弥呼死す | ||||||
263 | |||||||
265 | |||||||
晋 (西晋) | 266 | 倭の女王壱与,晋に遣使 | |||||
280 | □前方後円墳の出現 | 前期 | 古墳時代 | ||||
316 | |||||||
五胡十六国 | 東晋 | 317 | |||||
372 | 百済王, 七支刀を倭王に贈る | ||||||
北魏 | 386 | ||||||
391 | 倭,百済・新羅を破る(高句麗 好太王碑の碑文) | 中期 | |||||
413 | 倭国,東晋に方物を献上(『晋書』) | ||||||
420 | |||||||
宋(南朝) | 421 | 讃,宋に遣使(421〜478『宋書』倭国伝) | |||||
438 | 珍,宋に遣使。「安東将軍 倭国王」となる | ||||||
439 | |||||||
443 | 済,宋に遣使。「安東将軍 倭国王」となる | ||||||
451 | 済,「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」となる | ||||||
462 | 興,「安東将軍 倭国王」となる | ||||||
478 | 武, 宋に遣使。「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」となる | ||||||
479 | 479 | 武,「鎮東大将軍」となる(『南斉書』倭国伝) | 後期 | ||||
斉(南朝) | 502 | 502 | 武,「征夷大将軍」となる(『梁書』) | ||||
梁(南朝) | 512 | 百済に伽椰西部の支配を認める | |||||
東魏 | 534 | ||||||
西魏 | 535 | ||||||
538 | 百済聖王,欽明天皇に仏像と経典を献上(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』『日本書紀』) | ||||||
北斉 | 550 | ||||||
北周 | 556 | ||||||
陳(南朝) | 557 |