承久の乱へ
1221年の承久の乱で朝廷に大勝した北条氏率いる幕府は、仲恭天皇を退け、後鳥羽上皇を隠岐島に、順徳上皇を佐渡島に、土御門上皇を土佐に配流した。治天の君が処罰されるなど前代未聞のことであり、朝廷の威信は著しく失墜した。
承久の乱へ
武士の勢力が全国各地で伸びていくにつれ、朝廷や貴族の反感は強まった。ことに公家の経済的基盤である荘園が地頭のために侵されていったことは、危機感をいっそう増大させ、幕府を倒そうという動きを生起させることになった。
鎌倉時代の初め、朝廷の実権を握ったのは、源頼朝と協調関係にあった九条兼実であった。ところが新幕派というべき兼実は、1196(建久7)年、反幕派の源通親の策動によって失脚してしまう。通親は兼実にかわって一時権力を握ったが、やがて成人に達した後鳥羽上皇が後白河法皇の後継者として強力な指導力を発揮するようになる。上皇は歴代の治天の君(院政を行った上皇をこのように呼ぶ)たちと同様に専制を指向し、権力を一心に集中していった。九条兼実が重視した貴族の合議は退けられ、政務は上皇と、何人かの上皇の寵臣によって執り行われた。乳母の卿二位(藤原兼子)をはじめとする上皇の近親者が政治に口を出し、大きな力をもった。
女人入眼の日本国
鎌倉時代前期は、女性が政治に大きな力をもった時期でもあった。鳥羽上皇の内親王で、膨大な荘園群を領有した八条院。後白河法皇の寵妃で、しきりに朝政に口を出した丹後局(高階栄子)。それに源頼朝の妻の北条政子と後鳥羽上皇の乳母の卿二位。政子は頼朝亡きあとの幕府を主導していたし、卿二位は後鳥羽院政の中枢にあって上皇を助けていた。慈円は『愚管抄』でこの2人を取りあげ、「日本は女人入眼の国」と評した。幕府でも朝廷でも、女性が政治を動かしている、というのである。
後鳥羽上皇は八条院領、長講堂領など、分散していた広大な天皇家領を手中に収めて経済的な基盤を強化した。そのうえで、これらの土地を恩賞として、新たな朝廷の軍事力を編成していった。畿内・近国の武士や幕府の有力御家人までもが上皇に臣従し、北面の武士や、また新たに設けられた西面の武士に任じられた。彼らは日頃から上皇のそば近くに仕え、直接上皇の命を受け、大寺社の僧兵などとの戦闘に従事していた。
上皇は将軍源実朝をあつく遇した。破格の官位を与え、母と后の実家坊門家の女性を選んで彼の妻とし、側近の源仲章という人物を学問の師として鎌倉に送った。上皇は実朝を通じ、鎌倉幕府に影響力を行使しようとしたのではないかと考えられている。ところが実朝は暗殺され、仲章も同時に殺害された。上皇が皇子の新将軍就任を拒否したことは前述したが、この件にみられるように、朝廷と北条氏を代表する幕府との関係は急速に不安定になっていった。1221(承久3)年5月、ついに上皇は北条義時追討の院宣を諸国の武士に発した。承久の乱の始まりである。
上皇のもとには、北面・西面の武士となった有力御家人や、北条氏に反発する人々が集まった。しかし、上皇の思惑に反し、武士の大多数は上皇の呼びかけに応じなかった。北条氏が主導する幕府のもとに、御家人たちは続々と集結していったのである。大江広元の意見にしたがって短期決戦をとった義時は、長子北条泰時を大将とし、弟北条時房を副将として、東海・東山・北陸の3道から大軍を京都に進ませた。朝廷軍はこれを迎え討ち、木曽川や宇治・勢多に戦ったが、兵力差は歴然で、一戦のもとに敗れ去った。幕府軍は鎌倉を発して1カ月足らずの間に、朝廷軍を壊滅させて京都を占領した。
乱後、北条義時は泰時・時房の両名をそのまま京都にとどまらせて、事件の後始末をさせた。まず後鳥羽上皇の嫡孫仲恭天皇を退け、上皇の兄の子の後堀河天皇を即位させた。後鳥羽上皇の血縁を忌避したのである。ついで後鳥羽上皇を隠岐島に、順徳上皇を佐渡島に、土御門上皇を土佐に流した。
治天の君が処罰されるなど前代未聞のことであり、朝廷の威信は著しく失墜した。
また、計画の中心にあった何人もの貴族・武士を斬罪に処した。貴族の処刑もあまり前例のないことで、当時の人々を驚嘆させた。人々は朝廷と幕府の関係を新たに認識し直したに違いない。
上皇方の貴族・武士の所領はすべて幕府に没収され、関東御陵に組み込まれた。先の平家の遺領が500カ所余りであったのに比して、この時の所領は3000カ所にのぼった。幕府は功績のあった御家人に対し、これを地頭職として与えた。この地頭を新補地頭といい、新補地頭の給与を定めた基準を新補率法という。新補率法によって地頭に保障されて権益は、
- ①田畠11町ごとに1町ずつを、年貢を荘園領主や国司に納めずに地頭が取得する地頭給田とする。
- ②田畠1段ごとに米5升ずつを加徴米として徴収する。
- ③山野や河海からの収益は地頭と荘園領主・国司らで折半する。
というものであった。上皇方の所領は畿内・西国に多く分布していた。そのため、こうした地域にも新たに地頭がおかれることにより、幕府の勢力は広く全国に及ぶようになった。
新補地頭と本捕地頭
承久の乱後におかれた地頭のうち、その得分を新補率法で定めたものを新補地頭といい、それまでの現地の先例にしたがう地頭を本舗地頭と呼んだ。ただし、やがて概念が混乱し、承久の乱後に新補されたものすべてを新補地頭と呼ぶようになった。新補地頭は畿内・西国にまで広くおかれ、幕府勢力の進展のもとになった。北条義時は、乱後の1223(貞応2)年に諸国の守護に命じて大田文(図田帳)をつくらせ、地頭の設置と合わせて、全国の土地に対する支配権の強化をはかった。
承久の乱後の処理をすませた北条泰時・北条時房は、その後も京都に残って六波羅の南北の居館に住み、京都守護にかわって京都市中の警備にあたった。彼らは六波羅探題と呼ばれた。こののち、探題の任は執権につぐ要職となり、北条氏一門の有力者が任命された(通常2名。1名のことも)。探題は尾張国以西の西国御家人を統括し、幕府と連絡を取りながら、西国の行政・司法を管掌した。
幕府は騒乱の再発を恐れ、厳しく朝廷を監視した。特に留意されたのは軍事面であり、幕府の威を恐れた朝廷は独自の軍事行動がとれなくなった。軍事的な奉公を媒介としての武士と上皇・貴族の主従関係の設定も、乱後にはみられない。それゆえに、統治を行うにあたり武士が必要になったとき、例えば大寺社が僧兵を動員して京中の治安を乱したときなど、朝廷には幕府の援助が不可欠であった。
この一事からも明らかなように、乱の結果によって、朝廷と幕府の二元的な支配の様相は大きく変化した。優位に立ったのはむろん幕府の側であって、幕府は皇位の継承や朝廷の政治のあり方にも干渉するようになった。朝廷では乱後も院政が行われているが、誰が治天の君となるかを決定するのも、結局は幕府であった。それゆえ、治天の君はもはや自らの絶対性を内外に主張することはできず、かつてのような専制的な君主にはなり得なかった。幕府と良好な関係を築いた上皇・貴族が朝廷内で重んじられ、朝廷の統治行為を担ったのである。