旧石器時代人の生活 更新世の日本 旧石器文化遺跡の分布地図
旧石器時代人の生活 更新世の日本 旧石器文化遺跡の分布地図©世界の歴史まっぷ

3. 旧石器時代人の生活

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旧石器時代人の生活

更新世の日本列島に人が住んでいたことが発見されたのは、第二次世界大戦後のことであった。関東地方の地表面の黒土の下には、更新世末期に堆積した赤土(火山灰)の厚い層が重なっており、関東ローム層と呼ばれる。この関東ローム層に遺跡は存在しないというのが長く定説であったが、1946(昭和21)年、行商をしながら独学で考古学を勉強していた相沢忠洋が、群馬県岩宿の切通しの赤土の中から打製石器を発見した。それがきっかけになって日本列島にも旧石器が存在したことが明らかになったのである。

旧石器時代人の生活

更新世の日本列島に人が住んでいたことが発見されたのは、第二次世界大戦後のことであった。関東地方の地表の黒土の下には、更新世末期に堆積した赤土(火山灰)の厚い層が重なっており、関東ローム層と呼ばれる。この関東ローム層に遺跡は存在しないとうのが長く定説であったが、1946(昭和21)年、行商をしながら独学で考古学を勉強していた相沢忠洋あいざわただひろが、群馬県岩宿の切通しの赤土の中から打製石器を発見した。それがきっかけになって日本列島にも旧石器が存在したことが明らかになったのである。

考古学の時期区分

考古学では、人類の文化を、使用された道具、特に利器の材質によって、石器時代・青銅器時代・鉄器時代に区分している。

石器時代は、打ち欠いただけの打製石器のみを用いた旧石器時代と、石器を磨いて仕上げている磨製石器が出現する新石器時代とに分けられる。

世界的には、更新世に属する人類文化を旧石器文化と呼ぶことが定着している。

日本では、旧石器時代の遺跡が知られるようになったころ、縄文土器以前、縄文時代以前、という意味で「先土器時代」「先縄文時代」という名称が用いられた。しかし、日本でもこの時代の遺跡の発見が相ついだことから、現在では「旧石器時代」という名称を用いることが一般的になっている。

ただし後続する時代について、日本では「新石器時代」ではなく、「縄文時代」「弥生時代」という名称が定着している。この点は用語として一貫性がないので、旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぼうという提唱もある。

なお、世界各地で、完新世に入ってからの食料採取の時代、または細石器が主に使用された時代を「中石器時代」と呼び、旧石器時代と分離して扱うことがある。日本でも縄文時代の古い部分を中石器時代と考える人がいる。

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岩宿遺跡の発見・調査ののち、関東ローム層の中でも最も上面に堆積し、年代が新しい立川ローム層(3万5000〜1万年前)の中から多くの遺跡が発見されるようになった。それに伴って、立川ローム層より前、つまり3万5000年前より古い遺跡や石器が存在するのかどうか、長く論争の種となった。この論争の影響を受け継いで、日本の考古学では3万5000年前より古い時代を前期旧石器時代、3万5000〜1万年前を後期旧石器時代と呼ぶが、これは日本独特の分け方である。

世界的な旧石器時代の区分としては、20万年前より以前、猿人原人礫器れっきやハンドアックスを用いた時代を前期(下部)旧石器時代、旧人が尖頭器やスクレイパーを発達させた8万〜3万5000年前を中期(中部)旧石器時代、新人が石刃から尖頭器・スクレイパー・ナイフ形石器などの多様な石器を製作した3万5000〜1万2000年前を後期(上部)旧石器時代というわけ方が一般的である。

前期旧石器時代にさかのぼる可能性がある石器として、東アジアや東南アジア各地に見られる大型の石核せきかく石器(チョッパー、チョッピングトゥール)や剝片はくへん石器などが日本各地で発見されている。前期旧石器時代の遺跡調査は、日本列島における旧人や原人の存在という問題と直結し、多くの関心を集めている。

旧石器時代の石器

旧石器は、れき(石塊)の周辺を打ち砕いて刃を作り出した「石核石器」と、石核から剥ぎ取られた破片(剝片)に刃をつくり出した「剝片石器」に分けられる。猿人・原人の用いた石器は主に石核石器であり、中期旧石器時代に剝片石器が発達した。後期旧石器時代には、剝片をいっそう注意深く多量につくり出す技法が発達した。その結果、つくり出された薄く長い剝片は石刃せきじんと呼ばれ、各種の石器の素材となった。

日本の旧石器時代の石器にもさまざまな種類があり、ナイフ形石器尖頭器細石刃など、動物の狩りに使われた槍(突き槍・投げ槍)の先端に取り付けられたもの、礫器・石斧・スクレイパー・彫器など、調理や加工に用いられた道具がある。

日本の後期旧石器時代の遺跡は、現在までに5000カ所ほど発見されている。

後期旧石器時代には、約2万2000年前に鹿児島湾北部の姶良あいらカルデラが大爆発をおこし、その火山灰(AT火山灰)が遠く青森県まで堆積した。AT火山灰を鍵層として石器の特徴の変化を見ると、その降下よりも古い時代には、全国的に同じような石器がみられるが、降下以後には地域的特徴が目立ってくる。

旧石器時代の年代について、放射性炭素年代を補正した年代を採用するならば、それは従来の年代観とはかなり異なるものとなる。例えば、AT火山灰の降下年代が2万9000年前、ナイフ形石器が最も盛んに作られたのが2万9000〜1万7000年前、ヴュルム氷期最寒冷期が2万4000〜2万2000年前、そして最古の土器の出現は1万6500年とされる。

世界の考古学の常識では、旧石器時代に磨製石器はみられないことになっている。

ところが日本では、3万5000年前以降、AT火山灰降下以前の遺跡から、打製石斧とともに、部分的に刃を磨いてつくられた局部磨製石斧がしばしば発見される。

ナイフ形石器は2万2000〜1万4000年前に最も普遍的な石器となる。東北・中部地方北部に東山・杉久保型ナイフ形石器、関東・中部地方南部に茂呂型ナイフ形石器、近畿・瀬戸内地方に国府型ナイフ形石器がそれぞれ分布している。それらは石器の石材と製作技法の違いから区別される。それぞれの分布圏を越えて、例えば山形県越中山K遺跡から国府型ナイフ形石器とその素材となる石が発見されたことは、長距離の人と物の移動が行われたことを物語る。

1万8000年前ころ、ヴュルム氷期最寒冷期が過ぎ、気候は完新世へと向けて温暖化していく。

気候の変化は動物相にも大きな影響を与え、更新世末にナウマン象、ヘラジカが絶滅し、縄文時代草創期にはオオツノジカも絶滅した。かわってニホンシカイノシシを中心とした縄文時代に一般的な動物相が成立してくる。動物群の変化に対応して、狩猟具の槍先はナイフ形石器から尖頭器へ変化した。さらに、旧石器時代の終末に細石刃を動物骨の側縁に埋め込んだ組み合わせ式のが登場する。この細石刃を中心とした細石器文化は、旧石器時代から新石器時代の過渡期に全世界的にみられる。日本の細石器文化は北海道で最もよく発達し、細石刃をつくるための楔形細石核は北海道・シベリア・沿海州・中国東北部・モンゴル・朝鮮半島で発見され、このような広い範囲でよく似た石器の製作技法が見られる。これは、旧石器時代末期に、北海道と大陸の人々が同様の技術伝統を有していたことを示す。細石器文化のあと、最古の土器の出現とともに、1万2000年前ころには縄文時代に入った。

旧石器時代の研究は石器を中心に行われているが、それ以外にも当時の生活を知ることができる資料がある。

大阪府はさみ山遺跡からは、地面を円形に掘りくぼめて柱穴をめぐらした住居の跡が発見された。肉などを蒸し焼きにした調理の跡と考えられているれき群(集石)は各地で発見されている。しかし、のちの縄文時代に比べれば、土地に残された生活の痕跡は断然少ない。

旧石器時代の墓は、北海道湯の里遺跡、同じく美利河ぴりか遺跡から発見されている。人骨は残っていなかったが、穴の底から装飾品として使われた玉が発見されており、墓であったと考えられている。

これは旧石器時代の人々が、一カ所に定住する期間が短く、頻繁に移動を行っていたことを示している。おそらく、数人から十数人の小集団が、一つの河川の流域で、食料資源を求めながら移動を繰り返したのであろう。そのため、住居も簡単なテント式の小屋であったり、山中では洞穴を利用したりすることもあった。このような小集団がいくつか集まって、より大きな部族的な集団が形成されていったと考えられる。それらは、石器の原材料となる石を遠隔地から入手し、小集団に分配する役目を果たしたであろう。例えば黒曜石は、長野県和田峠、伊豆諸島の神津島など、限られた場所でしか産出しない。しかし、それらの黒曜石は旧石器時代を通じて関東地方・中部地方に広く分布している。また、北海道白滝の黒曜石は、樺太(サハリン)の遺跡まで運ばれたことが確認されている。このように、旧石器時代の社会には、石器材料が遠隔地の集団にまで行きわたるような、交換や分配の仕組みが既に存在していたのである。

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