町と町人
江戸図屏風の江戸城の北側には、徳川御三家の屋敷がみえる。左から尾張、水戸、紀伊の徳川家の屋敷には、それぞれ門が二つあり、茶色い屋根の門は、将軍を迎えるための豪華な御成門といい、右の青い屋根の門は普段使う表門。御三家の屋敷は明暦の大火で焼失した。全国の大名は江戸に屋敷を与えられ、大名屋敷を営んだが、各藩邸の門は大名の家格を示すものであった。
町と町人
近世になると、中世とは比較にならないほど多数の都市がつくられた。都市には城下町のほかに、港町・門前町・宿場町・鉱山町などがあったが、三都と呼ばれた江戸・大坂・京都は、これら近世の都市の性格を多く合わせもつ総合的な都市で、17世紀なかごろまでには世界でも有数の大都市に成長した。
江戸
江戸には、幕府の諸施設や全国の大名の屋敷(藩邸)をはじめ、旗本・御家人の屋敷が集中し、それらの家臣や武家奉公人を含め多数の武家人口が居住した。また町人地には、武家の生活を支えるために、あらゆる種類の商人・職人(手工業者)や日用(日雇)らが集まった。武家地は70%、寛永寺・増上寺など寺社地は15%を占め、合わせて85%の土地はゆとりのある空間が広がつていた。町人地は15%の広さしかなく、その狭い空間に約50万人の人々がひしめき合っていた。これら多数の人口を抱える江戸は、日本最大の消費都市となった。
大坂
大坂は「天下の台所」といわれ、西日本や北陸など各地の物資の集散地として栄えた大商業都市であった。諸藩の蔵屋敷が多くおかれ、蔵物と呼ばれる年貢米や特産品が回送され、蔵元・掛屋を通じて売りさばかれて、領主経済を成り立たせた。このほか納屋物と呼ばれる民間の多様な商品も集荷され、その後、蔵物・納屋物は江戸をはじめ全国に出荷された。これらの商業・輸送を担う人々が多く居住する町が、大坂であった。
京都
京都には古代以来、天皇家や公家が居住し、寺院の本山や伝統ある神社が数多く集まっていた。また、西陣織や京染を売る呉服屋をはじめとして高級品店がならび、高い技術を用いた手工業生産品は、幕府御用や諸大名の注文にこたえた。
城下町
三都はそれぞれ個性をもった大都市であったが、これについで重要な近世の都市は各地の城下町であった。城下町は、大名の住む城郭を軍事的に固めるかたちで武士が集住した。かつて在地領主として農村部に居住していた者も、すべて城下町に移住させられ、政治を行った。合わせて商人・職人も集められ、城下町は領国経済の中心地として流通の拠点となった。商人・職人は、屋敷地にかけられる年貢である地子の免除や営業自由の特権が与えられ、定着した。
城下町の都市構造は、城郭を核として武家地・寺社地・町人地など身分ごとに居住する地域がはっきりと区分された。このうち城郭と武家地は城下町の面積の大半を占め、政治・軍事の諸施設や家臣団の屋敷がおかれた。
寺社地
また、寺社地には数多くの寺院や神社が設けられ、大名の檀那寺や町の鎮守などとしての宗教的役割を果たしたほか、いざというときの軍事的拠点の機能ももたされた。
町人地
町人地は町方とも呼ばれ、商人・職人が居住し、営業を行う場であり、面積は小さいが三都や全国と領地を結ぶ経済・流通活動の中枢として重要な役割を果たした。町人地には、町(丁)という小社会(共同体)が多数存在し、こ
れが集まつて町を形成した。町には村と類似の自治組織があり、住民の生活を支えた。町内に町屋敷をもつ家持の住民は町人と呼ばれる。村における高持の本百姓に相当する。
この町人から選ばれた名主(町名主)・町年寄・月行事が町の運営にあたり、町の上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などが町人の負担として担われた。これらの負担は夫役である町人足役で、これらは防火など危険も伴うことから、しだいに町人足役を貨幣で納め、専門職を雇って労働を担ってもらうようになっていった。
町にはこのほか宅地(町屋敷)を借りて家屋を建てる地借や、家屋ごと借りて居住する借家・店借がおり、わけても9尺2間(3坪=畳6畳)の裏長屋の借家人などは、地代や店賃を支払うだけで、町人足役や町入用などの負担はなく、町の運営に参加する資格もなかった。