社会問題の発生
- 甲府雨宮製紙工場スト 1886.6
- 高島炭鉱問題 1886.6
- 足尾銅山争議 1907.2
- 別子銅山葬儀 1907.6
- 大阪天満紡績工場スト 1889.9〜1894.1
社会問題の発生
明治の中期以後、資本主義の発達がめざましくなり、工場制工業がつぎつぎに勃興するに伴い、賃金労働者の数も急増した。彼らの多くが農家の次男・三男や子女で貧しい家計を助けるためのいわゆる「出稼型」の労働者であった。しかも、産業革命の中心となった繊維産業部門の労働者は、大部分が女性であり ❶ 、重工業や鉱山部門では男性労働者が多かったが、全体として女性労働者の比重が大きかったのである ❷ 。これらの労働者は、同時代の欧米諸国に比べると、はるかに低い賃金で長時間の過酷な労働に従事し、また悪い衛生状態・生活環境におかれるなど、労働条件は劣悪であった。
❶ 1900(明治33)年の統計によると、民間の工場(10人以上使用)労働者数は38万8296人で、そのうち繊維産業の労慟者が23万7132人(製糸業11万8804人、紡績業6万2856人)と60%以上を占め、その約88%が女性であった。
❷ また、年少労働者の数も多く、例えば1897〜98年ころの統計では12歳未満の労働者が摂津紡績会社では全労働者中の21%余り、大阪紡績会社では10%余りを占めていた。
労働時間と賃金
劣悪な労働条件を最もよく表しているのが、労働時間の長さと賃金の低さであった。重工業の男性労働者についてみれば、例えば東京砲兵工廠や石川島造船所では、1897(明治30)年ころ、1日10〜11時間労働で、日給30〜35銭(現在の3000円くらい)程度であったが、実際には残業して13〜16時間働き、50〜60銭程度の日給を得ることが多かった。休日は普通は月2回。紡績工場の女性労働者(女工)は、昼夜2交代制の12時間労働(実働11時間)で、休日はおおむね隔週1回、賃金は日給7〜25銭が標準であった。女性労働者の多くは寄宿舎に住んだが、肺結核などにより健康を損うことも少なくなかった。大企業に多かった紡績女工に比べ、中小企業に多かった製糸女工や織物女工の場合は、その労働条件はいっそう悪く ❸ 、16〜17時間労働もまれではなかったという。ちなみに当時の米価は1升(約1.5kg)l4〜15銭程度、大学を卒業した官吏の初任給は月額40〜50円であった。
製糸工女の実態
余 * 嘗て桐生・足利の機業地に遊び、聞いて極楽、観て地獄、職工自身が然かく口にせると同じく、余も亦たその境遇の甚しきを見て之を案外なりとせり。而かも足利・桐生を辞して前橋に至り、製糸職工に接し、更に織物職工より甚しきに驚ける也。労働時間の如き、忙しき時は朝床を出でて直に業に服し、夜業十二時に及ぶこと稀ならず。食物はワリ麦六分に米四分、寝室は豚小屋に類して醜陋見るべからず。特に驚くべきは、某地方の如き、業務の閑なる時は復た期を定めて奉公に出だし、収得は雇主之を取る。而して一ケ年支払ふ賃銀は多きも二十円を出でざるなり **。…若し各種労働に就き、其の職工の境遇にして憐むべき者を挙ぐれば製糸職工第一たるべし。(横山源之助『日本之下層社会』)
女工小唄
籠の鳥より監獄よりも
寄宿ずまいはなお辛い
工場は地獄で主任が鬼で
廻る運転火の車
糸は切れ役わしゃつなぎ役
そばの部長さん睨み役(以下略)
日清戦争以前には、労働者の意識は成熟しておらず、労働運動は本格化しなかった。九州の高島炭鉱で、3000人の坑夫が過酷な重労働を強いられ、これが1888(明治21)年、雑誌『日本人』に取りあげられた高島炭鉱事件や、1886(明治19)年、甲府の雨宮製糸工場で、100余名の女工が劣悪な労働条件に反対してストライキをおこしたことなどが、この時期の主な労働問題であった。
日清戦争後、労働者の階級的自覚がしだいに高まり、劣悪な労働条件を改善するために団結するようになった。1897(明治30)年にはアメリカから帰国した高野房太郎(1868〜1904)らが職工義友会をおこし、「職工諸君に寄す」というー文を配布したが、これに片山潜(1859〜1933)らが加わって、同年、労働組合期成会が結成され、その指導のもとに、各地で鉄工組合や日本鉄道矯正会などの労働組合がつくられ、待遇改善や賃金引き上げを要求する労働争議がしばしばおこるようになった。片山が中心となり、労働組合期成会・鉄工組合の機関誌として『労働世界』が発行され、労働組合運動が展開された。
これに対し政府は、1900(明治33)年に治安警察法を公布し、労働者の団結権・罷業権を制限して労働運動を取り締まったが、反面、生産能率の向上と資本家·経営者と労働者の階級対立を緩和するために労働条件を改善する必要があるとして、労働者を保護する法律を制定しようとした。しかしそれは経営者側の反対でなかなか実現しなかった。
労働組合が結成され労働運動が展開されるとともに、その指導理論としての社会主義思想が芽ばえるようになった。1898(明治31)年に社会主義研究会が生まれ、これを母体として1901(明治34)年には日本で最初の社会主義政党である社会民主党が結成された。しかし政府は、治安警察法によってただちにこれを禁止した。
社会民主党
中心メンバーは、幸徳秋水·片山潜・安部磯雄(1865〜1949)·西川光二郎(1876〜1940)・木下尚(1869〜1937)・河上清(1873〜1949)らで、理想綱領として軍備全廃・階級の廃止・土地と資本の公有化などをかかげ、実際、運動の綱領としては貴族院廃止・軍備縮小・普通選挙実施・8時間労働実施などをうたった。そのころはマルクス主義の影響よりも、まだキリスト教的人道主義の性格が強かった。
そののち、日露戦争の危機が深まると、1903(明治36)年、幸徳秋水・堺利彦らは平民社をおこし『平民新聞』を発行して、社会主義の立場から反戦運動を展開した。
また、近代産業の急速な発展に伴い、さまざまな公害問題もおこった。なかでも足尾銅山鉱毒事件は地元の鉱毒被害民により足尾銅山の事業停止を求める運動が展開され、田中正造(1841〜1913)らが議会でこれを取りあげて政府に対策を迫るなど、大きな社会問題に発展した。
足尾銅山鉱毒事件と田中正造
栃木県足尾町(現、日光市)にある銅山は、江戸時代初期から幕府直営の銅山として有名であったが、明治初期、民間に払い下げられ、古河市兵衛(1832〜1903)が経営者となった。彼は技術的改良を加え、最新の洋式機械を使って採掘にあたったので、銅の産出額は飛躍的に増大したが、銅の製錬過程ででる鉱毒が多量に渡良瀬川に流れ込んで大量の魚を死滅させ、1890(明治23)年の洪水では、流域の村々で作物が立ち枯れるなど田畑を荒廃させた。1891(明治24)年、栃木県選出の衆議院議員田中正造(立憲改進党)が衆議院でその対策を政府に迫り、その後も被害民とともに、しばしば鉱覇除去・銅山の操業停止と被害民の救済を政府に求めた。民間では、内村鑑三・木下尚江・島田三郎ら知識人・言論人が被害民を支援して鉱毒問題解決を求めるキャンペーンを展開し、鉱毒事件は大きな社会問題に発展した。政府は1897(明治30)年、鉱毒調査委員会の調査に基づき、経営側に対し鉱毒除去を命じたが、鉱毒防止措置は効果が乏しく、被害はやまず、1900(明治33)年には、陳情のため集団で上京しようとした被害民と警官隊が衝突し、多数の検挙者を出した(川俣事件)。議会での請願や質問では効果がないと判断した田中正造は、1901(明治34)年衆議院議貝を辞職し、明治天皇に直訴した。のち、政府は鉱毒防止対策として渡良瀬川の洪水調整と鉱毒沈澱のための遊水池を建設することにし、建設予定地にあたる谷中村村民の反対を押し切ってこれを実行したので、谷中村は廃村となった。
日露戦争を通じて社会矛盾が深まると、労働争議はしだいに激しくなった。1906(明治39)年、第1次西園寺内閣が融和的態度をみせると、片山潜·堺利彦・西川光二郎らは日本社会党を結成して、社会主義の実現を網領として打ち出した。たまたまおこった東京市電の値上げ反対運動では、日本社会党は大衆行動にでて警官隊と衝突した。1907(明治40)年には足尾銅山、長崎造船所·別子銅山などで大規模なストライキがおこり、軍隊が出動するほどであった。このような時期に日本社会党の内部には幸徳秋水ら急進派が直接行動を主張して(直接行動派)、議会政策を重視する穏健派(議会政策派)と対立する情勢がおこり、同年、日本社会党は政府から解散を命じられた。翌年、仲間の出獄を歓迎した社会主義者たちが革命歌を歌い赤旗を掲げて行進し、警官隊と衝突して多数の検挙者を出す事件がおこった(赤旗事件)。
1908(明治41)年第2次桂内閣が成立すると、社会主義運動に対する取締りはいちだんと厳しくなり、1910(明治43)年には明治天皇暗殺を計画したという理由で、多くの社会主義者が逮捕され、その翌年に処刑された。いわゆる大逆事件である。
大逆事件
その真相は長く謎に包まれていたが、第二次世界大戦後になってようやく明らかになってきた。それによると、宮下太吉・菅野スガら数人の急進的な無政府主義活動家が、天皇をすべての社会悪の根源としてその暗殺を計画し、爆裂弾の製造にあたっていたことが発覚して逮捕された。政府はこれを機に大量の社会主義者を検挙し、うち26名を非公開の裁判に付し、幸徳秋水ら12名を死刑、14名を懲役刑に処した。しかし、実際には幸徳は天皇暗殺計画には消極的だったらしく、今日では処刑された人々のなかには無実だった者もあったとみられている。
政府は大逆事件をきっかけに社会主義運動を弾圧するため、警視庁内に特別高等課(特高)を設置した。国民の大多数は社会主義を危険視するようになり、社会主義者の活動は一時まったく衰えてしまった(「冬の時代」)。
同時に、政府は1911(明治44)年に工場法を制定するなど、社会政策的配慮から労働条件の改善をはかり、労働者と資本家との対立を緩和してその協調をはかろうとした。
工場法
政府は、社会政策の立場に立って、かねてから農商務省を中心に労働者保護の立法措置を行おうとして法案作成にあたっていたが、経営者・資本家側の強い反対でなかなか実現しなかった。1911(明治44)年になり、ようやく工場法として日本最初の労働者保護立法が実現した。少年・女性の就業時間の限度を12時間とし、深夜業が禁止となったが、適用範囲は15人以上を使用する工場に限られ、製糸業では14時間労働、紡績業では制限つきながら、深夜業を認めるなど、不徹底なものであった。5年余りの猶予期間をおいて、工場法は1916(大正5)年に施行された。
東京や大阪のような大都市では、下層民が集中して住む貧民窟(スラム)が出現し、貧困や衛生状態の劣悪化などが深刻化した。民間でこうした問題と取り組んで、山室軍平(1872〜1940)の救世軍などキリスト教団体による社会救済事業が活発に展開された。また、矢島揖子(1833〜1925)らのキリスト教婦人矯風会は、公娼制度の廃止と女性の更生補導をめざして(廃娼運動)、その生活改善の運動を進めた。
ー方こうした社会問題は農村にもおこった。日露戦争後の慢性的不況の影響を受けて、都市の人口吸収は限界に達し、農村には人口がだぶつきはじめ、農産物価格も値下りして、農民の窮乏が目立ってきた。小作人が組合をつくって小作料減免を寄生地主に要求する動きもおこり、農村の共同体的秩序がゆるんで、社会の基盤が不安定になるという問題も現れ始めた。