平城京の時代 奈良時代 藤原氏の進出と政界の動揺
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3. 藤原氏の進出と政界の動揺

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藤原氏の進出と政界の動揺

皇位継承をめぐって、藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人に入れて生まれた皇子(聖武天皇)の即位をはかり、娘の光明子をも聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏との密接な血縁関係を築いた。不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟も、しだいに政界に重きを占めるようになっていった。しかし勢力が後退していく大伴氏や佐伯氏などの旧来の有力豪族との間にはさまざまな軋轢が生じた。

藤原氏の進出と政界の動揺

3 「平城京の時代」まとめ2/2 - 藤原氏の進出と政界の動揺・民衆と土地政策
奈良時代の政治の推移・土地制作の推移©世界の歴史まっぷ

8世紀初めには、皇族や中央の有力豪族たちの勢力のバランスを保ちながら、藤原鎌足の子藤原不比等を中心に律令制度の確立がはかられた。
しかし、やがて藤原氏が政界に進出するに伴い、勢力が後退していく大伴氏や佐伯氏などの旧来の有力豪族との間にはさまざまな軋轢が生じた。

皇位継承をめぐって、藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人に入れて生まれた皇子(聖武天皇)の即位をはかり、娘の光明子こうみょうしをも聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏との密接な血縁関係を築いた。不比等の子の武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろの4兄弟も、しだいに政界に重きを占めるようになっていった。この4兄弟は、それぞれのちの藤原氏の南家・北家・式家・京家の家系の祖となった。
720(養老4)年に不比等が死ぬと、壬申の乱で活躍した高市皇子たけちのみこ天武天皇の皇子)の子の長屋王が政界の首班となったが、聖武天皇の次の皇位継承に不安を感じた藤原4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣の長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てて天皇との結びつきを強めることに成功した。

歴代天皇系図(第34代〜第45代)
天武天皇の皇子 ©世界の歴史まっぷ

長屋王の変

長屋王は、天武天皇の子で壬申の乱で活躍した高市皇子を父とし、天智天皇の娘の内親王を母とし、妻には吉備内親王を迎えるという尊貴な血筋をもつ皇族であり、藤原不比等も娘を王に嫁がせていた。順調に昇進して、不比等が死ぬと政界の首班となり、正二位左大臣まで昇った。
しかし729(天平元)年、突然密告を受けて兵に邸宅を囲まれ、自刃させられた(長屋王の変)。
同時に吉備内親王及び同内親王との間にもうけた王子たちが自殺させられたが、ほかの関係者はほとんど許されている。『続日本紀』では吉備内親王には罪なしとし、また密告を偽りとも記していることから、この事件は、王邸を囲んだ側の中心であり変後の政界に進出した藤原4兄弟により仕組まれた事件であったと考えられている。
事件の背景としては、聖武天皇と藤原光明子との間に生まれた親王が早逝し、一方で県犬養氏出身の夫人に聖武の親王が生まれたことから、次の皇位継承をめぐって藤原氏に危機感が生じたこと、それに対応して光明子を皇后に立てようとすると長屋王が邪魔になるということがあった。

変の直後、武智麻呂は大納言に昇り、そして光明子は聖武天皇の皇后となり、藤原氏は大きな権威を獲得したのだった。
皇后は、律令では皇族であることが条件とされており、天皇亡きあとに臨時に執政したり、女性天皇としての即位もあり得、また、皇位継承への発言権をもてる立場であったのである。


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こうして長屋王にかわって、新たに大納言となった藤原武智麻呂むちまろら藤原4兄弟が光明皇后を押し立てて力をふるう時代がきた。
しかし、737(天平9)年に九州から全国に広がって流行した天然痘によって、藤原4兄弟は相ついで死去し、藤原氏の勢力は一時後退した。

天皇家と藤原氏の関係(1)
天皇家と藤原氏の関係(1)©世界の歴史まっぷ

その後、皇族出身の橘諸兄たちばなのもろえが政権を握り、新しい知識を身につけて唐から帰国した玄昉げんぼう吉備真備きびまきびが、聖武天皇の信任を得て政治に活躍した。
一方で天平の時代には各地で飢饉や疫病が続き、社会の動揺も広まっていった。740(天平12)年には、後退した藤原氏のなかから式家宇合うまかいの長子で大宰府に赴任していた藤原広嗣ふじわらのひろつぐが、玄昉・吉備真備らの排除を求めて九州で兵を動員し、乱をおこした(藤原広嗣の乱)。乱は中央から派遣された大軍との激戦ののち鎮圧されるが、政府の動揺はおさまらず、それから数年の間、聖武天皇は恭仁京くにきょう(京都府木津川市)・難波京なにわきょう(大阪市)・紫香楽宮しがらききゅう(滋賀県甲賀市)などに都を転々と移すことになった。

こうした政治情勢と社会的不安のもと、仏教をあつく信仰していた聖武天皇は、仏教のもつ鎮護国家ちんごこっかの思想によって国家の平和と安定をはかろうとした。
741(天平13)年には国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせることにした。七重塔を建て、丈六じょうろくの釈迦像を安置し、金光明最勝王経など護国の経典を備えさせ、国分寺には僧20人、国分尼寺には尼10人ずつおくこととした。国分寺・国分尼寺の伽藍造営は全国的な大事業であり、すぐには完成せず、こののち諸国では郡司など地方豪族の助けを得て国分寺・国分尼寺の造営事業が続いた。

ついで743(天平15)年には紫香楽宮で大仏造立の詔が出された。仏教による天下の安定を願うなかで、聖武天皇は「天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る」といいつつ、一枝の草、一把の土をもって造像に参加することを人々に呼びかけている。
745(天平17)年に再び平城京にもどると、造仏事業は奈良に移され、大仏造立には結局10年の歳月を要した。聖武天皇が娘の孝謙天皇こうけんてんのうに譲位して太上天皇だいじょうてんのうとなった時代の752(天平勝宝4)年に、高さ5丈3尺5寸(約16.1m)の東大寺大仏がようやく完成し、盛大な開眼供養の儀式が行われた。この儀式は、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が臨み、文武百官やインド・中国から渡来した僧をはじめ僧1万人が参列する盛儀であった。

孝謙天皇の時代は、光明皇太后の権威と結びついて武智麻呂の子藤原仲麻呂ふじわらのなかまろが政界で勢力を伸ばした。高齢の左大臣橘諸兄は仲麻呂によって引退に追い込まれ、橘諸兄の子奈良麻呂ならまろは、藤原仲麻呂の専権に対立する皇族や大伴氏・佐伯氏らの力を合わせて仲麻呂を倒そうとするが、757(天平宝字元)年、逆に先制されて奈良麻呂らは厳しい取り調べを受け殺されてしまう(橘奈良麻呂の乱)。
翌758(天平宝字2)年、仲麻呂によって擁立された淳仁天皇じゅんにんてんのうが即位する。淳仁天皇は天武天皇の皇子である舎人親王の子で、孝謙天皇まで続いた天武・持統天皇に始まる直系の皇位継承はここで途絶えることになったが、引き続き孝謙太上天皇の権威は強かった。
仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝えみのおしかつの名を賜わり、破格の待遇を経て、翌年には大師たいし(太政大臣)の地位に昇りつめる。権力を掌握した恵美押勝は自らの子や近親で要職を占めるが、後ろ盾であった光明皇太后が死去すると、貴族社会の中で孤立化を深めた。

孝謙太上天皇が道鏡を寵愛するようになり、淳仁天皇と対立すると、押勝は危機感を募らせ、ついに764(天平宝字8)年に兵をあげた。しかし、孝謙太上天皇側の迅速な対応によって押勝は緒戦に敗れ、地盤である近江から越前に逃れようとしたが果たせず、ついに殺された(恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱))。
その後、淳仁天皇は皇位を廃されて廃帝として淡路に流され、孝謙太上天皇が再び即位して称徳天皇しょうとくてんのうとなった。

道鏡

道鏡は、河内国の弓削連ゆげのむらじ氏出身で、サンスクリットの経典研究を行い、修行に打ち込んだのち、宮中の内道場に入り禅師ぜんじとなった。
761(天平宝字5)年に孝謙太上天皇の看病に成果をあげその寵愛を得て、それが太上天皇と淳仁天皇の対立となり764年に恵美押勝の乱がおこった。
恵美押勝を倒して再即位した称徳天皇の代になると、道鏡は天皇の信任を受け、765(天平神護元)年には太政大臣禅師、翌年さらに法王となって天皇に准ずる待遇を受け、権力を握り、仏教政治に腕をふるった。この時期には、西大寺の造営や百万塔の製作など、造寺・造仏がよく行われた。
769(神護景雲3)年には、称徳天皇の意向も受けて、ついに道鏡を皇位につけようとする事件までおこった。九州の宇佐八幡神が「道鏡を皇位につけたら天下は太平となる」と告げたという道鏡即位への動きは、神意を聞く使いとなった和気清麻呂わけのきよまろの道鏡即位に反対する報告によって挫折した。和気清麻呂の背景には、藤原式家の藤原百川ふじわらももかわら道鏡に反対する貴族たちの動きが存在した。

770(宝亀元)年に称徳天皇が死去すると、天皇の新任以外に政治的基盤をもたなかった道鏡の立場は暗転する。女性天皇として皇位継承者を定めなかった称徳天皇の後継を決める群臣会議では、藤原百川らが中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇族にかわって、天智天皇の子施基皇子しきのみこの子である光仁天皇こうにんてんのうを即位させることになった。
道鏡は下野薬師寺の別当として追放され、772(宝亀3)年、同地で死去した。また、大隅に配されていた和気清麻呂は呼び戻された。
光仁天皇の時代は、道鏡時代の仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の再建が追求されることになった。

藤原氏の進出と政界の動揺が登場する作品

古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」

吉備真備を吉岡秀隆が演じている。

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