鎖国政策
- 1633 奉書船以外の海外渡航禁止
- 1634 海外との往来や通商を制限
- 1635 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止
- 1636 ボルトガル人の子孫を追放
- 1637 島原の乱(〜38)
- 1639 ポルトガル船の来航を禁止
- 1641 オランダ商館を出島に移す
鎖国政策
江戸幕府初期の対外政策は、キリスト教は禁じるが、貿易は奨励するというものであり、海外貿易は活発であった。しかし、幕府がキリスト教の禁教を進めたため、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるを得なくなった。また、幕府は西国大名が貿易で利益をあげるのをおさえ、幕府のみが貿易利益を独占するために、盛んになった貿易を幕府の厳重な統制のもとにおいて管理する必要に迫られた。そのため、1624(寛永元)年に、スペイン船の来航を禁じた。また、イギリスもオランダとの競争に敗れ、1623(元和9)年に平戸商館を閉鎖した。ついで1633(寛永10)年には、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、さらに1635(寛永12)年、日本人の海外渡航を全面的に禁止したうえに、すでに渡航していた在外日本人の帰国も禁止した。その後、1637(寛永14)年から翌年にかけておこった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに深まり、1639(寛永16)年、ポルトガル船の来航を禁止した。さらには、平戸にあったオランダ商館を1641(寛永18)年に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止して、長崎奉行の厳しい監視のもとにおいた。
鎖国の歩み年表
年 | おもな出来事 |
---|---|
1600 | リーフデ号、豊後に漂着 |
1604 | 糸割符制度を創設 |
1609 | オランダ人に通商許可 |
1612 | 幕府、直轄領に禁教令 |
1613 | イギリス人に通商許可(平戸商館)。全国に禁教令 |
1614 | 宣教師・高山右近らを海外に追放 |
1616 | 中国船を除く外国船の来航を平戸・長崎に制限 |
1622 | 長崎で宣教師・信徒らを処刑(元和の大殉教) |
1623 | イギリス、平戸商館を閉鎖して退去 |
1624 | スペイン船の来航を禁止 |
1631 | 奉書船制度始まる |
1633 | 奉書船以外の海外渡航禁止 |
1634 | 海外との往来や通商を制限 |
1635 | 日本人の海外渡航および帰国を全面禁止 |
1636 | ボルトガル人の子孫を追放 |
1637 | 島原の乱(〜38) |
1639 | ポルトガル船の来航を禁止 |
1641 | オランダ商館を出島に移す |
こうして東アジアを舞台に展開してきた日本の貿易船やスペイン・ポルトガル・イギリス・オランダ商人の活動を統制する一方、幕府は中国(明朝)との国交を回復させようと、朝鮮(李氏朝鮮)や琉球を介して交渉したが明(王朝)からは拒否された。しかし、中国の民間商船も活動はヨ一ロッパ勢に劣らず活発で、九州各地に訪れていた。もはや中国との正式な国交回復を断念した幕府は、中国船との私貿易を長崎に限定して統制下におき、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる鎖国の状態となった。
出島:1634年から建設された湾内の扇形埋立地。1636年にポルトガル人を隔離するため収容した。1641年にはオランタ商館が移さ
れた。オランタ人は、この島から市中に入れず、日本人は役人、指定の商人や遊女以外は立ち入り禁止とされた。約4000坪(約1.31ha)。現在、出島は当時の原形を失っているが、長埼市により建物も含めて復元されている。
鎖国
「鎖国」という言葉は、ドイツ人医師ケンペル(1651〜1716)がその著書『日本誌』で、日本が長崎を通してオランダとのみ交渉をもつ、閉ざされた状態であることを指摘したのを1801(享和元)年, オランダ通詞志筑忠雄(1760-1806) が邦訳して「鎖国論」と題したのに始まる。「鎖国」の言葉は、つまりヨーロッパとの関係において国を鎖たということになる。