交通の整備
交通の整備
諸産業の発達はやがて商業の発達を生み、都市を発展させることになるが、その際、道路·水路の開発、交通施設の整備も必要になった。幕府の交通制度は、参勤交代の大名行列などに代表される、公用通行に重点がおかれていた。商品の流通という点から陸上交通を支えたのは、中世以来の馬借や伊奈街道や甲州道中で活躍した中馬のように、百姓が馬の背を使った駄賃稼ぎであったため、商品の大量輸送には不向きであった。
大量の物資を安価に運ぶには、時間はかかるが、陸路より海や川の水上交通が適していた。海上交通は、初期には幕府や藩の年貢米輸送を中心に、大坂と江戸を基点に整備された。やがて、各地の商品生産の展開とともに大坂に大量に集荷された商品の多くを、江戸に輸送する廻船が必要になった。
17世紀前半から始まった菱垣廻船は、船べりに積荷が落ちないように、檜の簿板か竹で菱形の垣をつけたところから名前がつけられた。元禄年間に江戸の十組問屋と提携して、定期的に運航された。これに対して樽廻船は、寛文年間(1661〜72)に摂津で酒荷を中心とする廻船としておこり、1730(享保15)年に江戸十組のうち酒店組が分離して提携し、樽廻船も大坂·江戸の定期運航を担うようになった。樽廻船は小型で荷役が早かったので、やがて酒以外の商品も安く船積みするようになり、菱垣廻船との間で争いがしばしばおこった。このため18世紀末に、両者は積荷の協定を結んだが、樽廻船の優位は続き、菱垣廻船は衰退していった。
東北・北陸地方の諸藩は蔵米を江戸や大坂に運ぶため、直航路を開くことを望んでいた。寛文年間、河村瑞賢(1618〜99)の努力によって秋田から津軽海峡を経て太平洋側にでて江戸にいたる東廻り海運と、日本海沿岸をまわって赤間関(下関)を経て瀬戸内海から大坂にいたる西廻り海運とが整備された。西廻り海運には北前船が活躍したが、後期になると、北前船は買積み方式で蝦夷地にも進出して、積極的な商取引を行った。河村瑞賢はまた、貞享年間(1684〜88)ころ安治川を開き、伏見から淀川を下って大坂にいたる舟運を便利にさせた。このような河川舟運は、慶長のころ、京都の商人角倉了以(1554〜1614)が富士川・天竜川や保津川・高瀬川を整備したのに始まり、河村瑞賢以降も各地方の河川は整備され、内陸地方の交通と物資輸送が便利になった。