浄土の信仰
国風文化の貴族の考える浄土は、この世においてその美しさを味わおうとする美的欲求の強いもので、いわば「聞く念仏、見る極楽」の教えであり、鎌倉時代の法然や親鸞らの浄土信仰とは大きく異なるが、優れた浄土教美術を生み出した意義は大きい。
浄土の信仰
仏教では、宮中で正月に金光明最勝王経を講読する御斎会など、奈良時代以来の国家仏教の流れをくむ法会が行われる一方、9世紀に成立した天台宗・真言宗がさまざまな祈禱を通じて朝廷・貴族の現世利益の願望にこたえ、その勢力を大きく伸ばしていった。
この時期の両宗から出た代表的な僧侶としては、真言宗では醍醐寺を開いた聖宝(理源大師)、天台宗では藤原忠平・師輔父子の帰依を受けた良源(慈恵大師・元三大師)らが著名である。
神仏習合の面では、日本の神は仏(本地仏)が仮に姿をかえて現世に現れたもの(権現)とする本地垂迹説が唱えられた。
天照大神が大日如来の化身であるというのが有名だが、ほかに修験道と関わりの深い蔵王権現や、院政期に上皇などの信仰を集めた熊野権現(本宮ー阿弥陀如来、新宮ー薬師如来、那智ー観音菩薩)などもある。
また疫病や災厄をもたらす神に対する従来の信仰と、故人の冥福を祈る仏教思想が融合して御霊信仰が生まれ、疫神や怨霊を鎮めるための御霊会が盛んに行われた。
藤原氏の陰謀の犠牲となった菅原道真が、死後に大きな祟りをなしたと信じられたため、北野神社に天神としてまつられたり、八坂神社(祇園社)の祭礼である祇園祭(祇園御霊会)が始まるなど、10世紀半ばから後半にかけて御霊信仰は広がり、後世にも大きな影響を及ぼした。
こうしたなかで10世紀以降、現世利益を追求する既存の仏教とは異なり、浄土への往生を求めることで現世の苦しみから逃れることを説く浄土教が流行するようになった。仏教の浄土には弥勒浄土や薬師浄土などがあるが、9世紀には天台宗の円仁が、念仏によって阿弥陀仏に帰依することにより、極楽浄土への往生を願う信仰を中国からもたらしていた。10世紀に入ると、既存の教団に属さない民間布教者で「市聖」と呼ばれた空也が、京の市で念仏の教えを熱心に説いて貴族や庶民の信仰を集めた。その後、天台宗出身の源信(恵心僧都)が『往生要集』を著し、多くの仏典から地獄と極楽浄土の姿を克明に書き出して「厭離穢土、欣求浄土」(穢れた現世を厭い、浄土への往生を願い求める)を説き、浄土にいたるための念仏の方法を具体的に示した。そこでは、のちの鎌倉新仏教が強調した称名念仏よりも、感覚的に浄土の姿をイメージするという意味での念仏が重視されており、これがこの時期の浄土美術の発展にも大きな影響を与えた。
さらに11世紀には、現世での頻繁な災害や治安の悪化を背景に末法思想が流行し、死後の浄土への願望はますます強まっていく。
釈迦入滅後、正法・像法・末法と次第にその教えが行われなくなるとする仏教の予言的年代観で、11世紀の1052(永承7)年から末法の時代が始まると説かれていた。
このような浄土信仰の高まりと同時に、慶滋保胤の『日本往生極楽記』、大江匡房の『続本朝往生伝』、三善為康の『拾遺往生伝』など、阿弥陀仏に帰依して極楽往生したと信じられた人物の伝記である
藤原道長は、晩年法成寺の建立を急ぎ、臨終に際しては九体阿弥陀堂のなかに臥して、目には弥陀の尊像を拝し、耳で尊い念仏を聞き、心に極楽浄土を思い、阿弥陀仏の手から伸びる糸を握りながら最後の息をひきとったといわれる。当時の貴族の考える浄土は、この世においてその美しさを味わおうとする美的欲求の強いもので、いわば聞く念仏、見る極楽の教えであり、鎌倉時代の法然や親鸞らの浄土信仰とは大きく異なるが、優れた浄土教美術を生み出した意義は大きい。貴族の浄土信仰