国家主義 明治期の思想界の流れ図 思想界の動向
明治期の思想界の流れ図 ©世界の歴史まっぷ

思想界の動向

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思想界の動向

日清戦争後、大陸進出を支える国家主義が思想界の主流となった。儒教道徳と結びつき、日本を天皇を頂点とする一大家族とみなし、明治末期には教科書に取り入れ、天皇制国家の社会秩序を内面から支える強力な道徳的・精神的支柱となった。

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明治期の思想界の流れ図 思想界の動向
明治期の思想界の流れ図 ©世界の歴史まっぷ

欧米列強から強い衝撃を受け、それに対応して近代的国民国家形成への道を歩んだ日本においては、政府や知識人たちの間には早くから個人の権利·自由と並んで、国家の独立と国権の拡張が近代国家形成過程における国民的課題として自覚されていた。それゆえ、明治初期から中江兆民 ・大井憲太郎らがフランス流の天賦人権論てんぷじんけんろんに基づく自由民権思想を広めたが、それには国権論の要素が多く含まれていた。

中江兆民はフランス留学から帰国後、ルソーの『社会契約論』の一部を翻訳して紹介したり(『民約訳解』)、西園寺公望を社長に『東洋自由新聞』を発刊したりして、自由民権の代表的思想家になった。

1880年代の終わりころから、政府のそれまでとってきた欧化政策を表面的で浅薄なものとし、これに反対する主張が民間で強くなった。徳富蘇峰とくとみそほう猪一郎いいちろう、1863〜1957)は、1887(明治20)年、民友社を設立し、同年、雑誌『国民之友』、1890(明治23)年には『国民新聞』を創刊して、山路愛山やまじあいざん(1864〜1917)・竹越与三郎たけこしよさぶろう(1865〜1950)らとともに平民的欧化主義を唱えた。これは政府による上からの欧化政策を批判し、個人の自由と平等を基礎に積極的に西洋文化の摂取にあたろうとするもので、イギリス的な議会政治や社会政策も主張された。

ー方、三宅雪嶺みやけせつれい(雄二郎、1860〜1945)·杉浦重剛すぎうらじゅうごう(1855〜1924)·陸羯南りくかつなん(実、1857〜1907)・志賀重昂しがしげたか(1863〜1927)ら政教社せいきょうしゃ(1888年設立)のグループは、雑誌『日本人』(1888年創刊)や『日本』(新聞、1889年創刊)によって、西洋文化の無批判な模倣に反対し、日本固有の伝統のなかに価値の基準「真・善・美」を求め、それを基礎に国民国家をつくりあげようとする、いわゆる国粋保存主義を説いた。いずれも国民を基磋にしたナショナリズムの立場に立ち、上からの国家主義には批判的であったが、日清戦争を契機に、しだいに批判的立場は失われ、徳富の国家主義への転身にみられるように、上からの国家主義に同化されていった。また、1900年ころになると、列強の帝国主義に対抗するかたちで、高山樗牛たかやまちょぎゅう(1871〜1902)は雑誌『太陽』によって日本主義を唱えた。

こうして日清戦争後は、日本の対外膨張・大陸進出とそれを支える国家主義が思想界の主流となった。加藤弘之(1836〜1916)·井上哲次郎(1855〜1944)ら帝国大学(帝大、のち東京帝国大学)の学者が中心となって、ドイツ流の国家主義や社会有機体論などを取り入れ、盛んに個人に対する国家の優越を説いた。また、社会進化論が加藤らによって広まるなかで、これを国家と国家の関係に適用し、国際社会における優勝劣敗・弱肉強食を肯定する考え方が強くなっていった。国家主義の思想は伝統的な儒教道徳と結びつき、日本を天皇を頂点とする一大家族とみなし、「忠孝一致ちゅうこういっち」「忠君愛国ちゅうくんあいこく」の精神が強調されるようになった。このような家族国家観は、明治時代末期には政府により国定の修身教科書のなかに取り入れられ、義務教育の普及や国民道徳論の展開に伴って広く国民の間に国体観念を植えつけ、天皇制国家の社会秩序を内面から支える強力な道徳的・精神的支柱となった。

そして、こうした思想に反する考え方や学問研究に対しては、しばしば強い圧力がかけられた。神道の実証的研究「神道は祭天の古俗」を『史学会雑誌』に発表した久米邦武くめくにたけ(1839〜1931)が、神道家らの攻撃によって帝大教授辞任を余儀なくされ、キリスト教徒の立場から教育勅語への拝礼を拒否した第一高等中学校の嘱託職員内村鑑三が、生徒やジャーナリズムの非難をあび、これに屈伏した学校当局によって教坦から追われたり(内村鑑三不敬事件)、また小学校の日本歴史の国定教科書に南北朝併立説を執筆した喜田貞吉きださだきち(1871〜1937)が、南朝を正統とする立場から激しく攻繋され、編修官を休職になったりした(南北朝正閏問題)のはその表れである。

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