政党の成立
政党の成立
政党の結成
政党 | 代表者 | 主要人物 | 主張内容 | 支持層 | 機関紙 |
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自由党 1881〜84 | 板垣退助 (総理=党首) | 星亨 中島信行 後藤象二郎 | フランス流の急進的自由主義、一院制、主権在民、普通選挙 | 士族・豪農・自作農 | 自由新聞 |
立憲改進党 1882〜96 | 大隈重信 (総理=党首) | 犬養毅 尾崎行雄 矢野龍渓 | イギリス流の漸進的立憲主義、二院制、君臣同治、制限選挙 | 知識層・実業家 | 郵便報知新聞 |
立憲帝政党 1882〜83 | 福地源一郎 | 丸山作楽 | 国粋主義の欽定憲法論、二院制、主権在君、制限選挙 | 官吏・神官・僧侶 | 東京日日新聞 |
国会期成同盟では、かねてから自由主義を標榜する政党の結成を進めていたが、国会開設の勅諭が出されたのを契機に、自由民権派の政党がつぎつぎに生まれた。まず1881(明治14)年10月、国会期成同盟を母体に、板垣退助を総理(党首)とする自由党が結成され、翌1882(明治15)年には、下野した大隈重信を党首として立憲改進党が成立した。これらに対抗して政府を支持する勢力も、同年、福地源一郎(1841〜1906)を党首とする立憲帝政党をつくった。また、地方にもそれぞれの系統を引く民権派などの政党がつぎつぎとつくられていった。
3党の性格
自由党は「自由ヲ拡充シ権利ヲ保全シ幸福ヲ増進シ社会ノ改良ヲ図ル」こと、「善良ナル立憲政体ヲ確立スル」ことなどを綱領とし、自由主義の立場に立って行動は比較的急進的であった。党員も悲憤慷慨の志士型が多く、代言人(弁護士)・新聞記者などの知識層(主に士族)や、豪農・地主・商工業者ら地方有力者層を地盤としていた。幹部には板垣以下、後藤象二郎・片岡健吉・河野広中・大井憲太郎・星亨・植木枝盛らがいた。
立憲改進党は「王室ノ尊栄ヲ保チ、人民ノ幸福ヲ全フスル事」「内治ノ改良ヲ主トシ、国権ノ拡張二及ボス事」などを綱領とし、イギリス流の立憲主義の立場に立って、行動も比較的穏健な漸進主義で、知的・合理的なインテリ臭が強かった。自由党と同じく豪農・地主・商工業者ら地方有力者層が地盤であったが、党の指導者には都市の知識層が大きな比重を占め(いわゆる都市民権派)、とくに大隈とともに下野した旧官吏や慶應義塾出身者が多く加わっていた。幹部には大隈以下、河野敏鎌(1844〜95)·矢野文雄(1850〜1931)·沼間守一(1843〜90)・小野梓(1852〜86)·島田三郎(1852〜1923)·犬養毅(1855〜1932)·尾崎行雄(1858〜1954)らがいた。
立憲帝政党は政府系の政党で、支持者は神官・僧侶・国学者・儒学者などの一部に限られ、その主張は天皇中心主義の保守的なものであり、政府の政党否認の方針によって翌年解散してしまったので、みるべき活動はなかった。
こうして成立した民権派の政党や諸団体は、立憲君主制のもとにおいて政党政治(政党内閣)の実現をめざすという点ではおおむね一致した考え方をもち、憲法の私案である私擬憲法をつくったり、地方遊説によって党勢拡張につとめるなど、盛んに運動を進めたが、自由·立憲改進両党の対立の激化や、国会開設という統ー的目標の喪失、農村の不況による活動資金の調達難などのため、運動はしだいに停滞気味となった。
私擬憲法
国会開設運動の高まりとともに、1870代末から80年代初めには、自由民権派をはじめ民間の人々が、政府の開明派官僚たちとも協力して、盛んに自分たちの理想とする憲法案を起草した。これが、私擬憲法である。現在、1879(明治12)〜82(明治15)年の4年間に起草されたものとして50編近くが明らかにされている。これらはいずれも立憲君主制を定め、国民の権利と自由を認めているが、議会の選挙制度では制限選挙を採用している。福沢諭吉の門下生を中心とした交詢社「私擬憲法案」のように、イギリス流の二院制の議会による議会政治を取り入れ、君主は行政権を政府に委ね、政府が議会の支持に基づいて政治を運営するという構想のものが主流であった。また、高知出身の民権家植木枝盛の「日本国国憲按」(「東洋大日本国国憲按」)や立志社の「日本憲法見込案」は、君主が行政権や統帥権を握るとともに、一院制の議会のもとで人民が立法権をもち、人民の自由と権利を大幅に認めている。さらに君権主義の立場からの私擬惑法もあった。