新政府への反乱
- 1874.1 赤坂喰違の変 右大臣岩倉具視が征韓派の高知県士族武市熊吉らに襲撃された事件
- 1874.2 佐賀の乱 征韓を主張する征韓党が下野した前参議江藤新平を擁しておこした士族の反乱
- 1874.6 わっぱ騒動 酒田県の過納租税の返還を求めた一揆。県令三島通庸によって弾圧。わっぱ(木でできた弁当箱)で配分できるほど過納租税があるという意味からついた名称。
- 1876.10 敬神党の乱 大田黒伴雄を中心に、熊本県士族が廃刀令に反対して挙兵
- 1876.10 秋月の乱 宮崎車之助を中心とする福岡県旧秋月藩士族による反乱。征韓と国権拡張を主張
- 1876.10 萩の乱 前参議前原一誠を中心に山口県士族らがおこした士族の反乱。広島鎮台兵により鎮圧。
- 1876.11 真壁騒動 茨城県真壁郡一帯におこった地租改正反対一揆。
- 1876.12 伊勢暴動 三重県からおこった地租改正反対一揆で、愛知・堺・岐阜の3県にも波及。
- 1877.2〜9 西南戦争 西郷隆盛を擁しておこした最大の士族反乱。
- 1878.5 紀尾井坂の変 内務卿大久保利通が石川県士族島田一良らに暗殺された事件
新政府への反乱
士族の反乱と農民一揆
1874.1 | 赤坂喰違の変 | 右大臣岩倉具視が征韓派の高知県士族武市熊吉らに襲撃された事件 |
1874.2 | 佐賀の乱 | 征韓を主張する征韓党が下野した前参議江藤新平を擁しておこした士族の反乱 |
1874.6 | わっぱ騒動 | 酒田県の過納租税の返還を求めた一揆。県令三島通庸によって弾圧。わっぱ(木でできた弁当箱)で配分できるほど過納租税があるという意味からついた名称。 |
1876.10 | 敬神党の乱 (神風連の乱) | 大田黒伴雄を中心に、熊本県士族が廃刀令に反対して挙兵 |
1876.10 | 秋月の乱 | 宮崎車之助を中心とする福岡県旧秋月藩士族による反乱。征韓と国権拡張を主張 |
1876.10 | 萩の乱 | 前参議前原一誠を中心に山口県士族らがおこした士族の反乱。広島鎮台兵により鎮圧。 |
1876.11 | 真壁騒動 | 茨城県真壁郡一帯におこった地租改正反対一揆。 |
1876.12 | 伊勢暴動 | 三重県からおこった地租改正反対一揆で、愛知・堺・岐阜の3県にも波及。 |
1877.2 〜9 | 西南戦争 | 西郷隆盛を擁しておこした最大の士族反乱。 |
1878.5 | 紀尾井坂の変 (大久保利通暗殺事件) | 内務卿大久保利通が石川県士族島田一良らに暗殺された事件 |
明治政府はあらゆる分野において急速な近代化政策(=西欧化政策)を推し進めたが、それはあまりに急激であり、国民生活の実情を無視し、国民に大きな生活の変化を強いることも少なくなかった。そのうえ、政府が少数の藩閥官僚による、いわゆる「有司専制」の政治を行っているとして、反対派から不満の声があがり、国内では政府に反抗する気運が高まりつつあった。
ところで、明治初期の国家財政における恒常的歳入の大部分は地租であったから、政府の諸政策は農民の負担において推進されたといえる。大多数の農民は地租改正によっても依然かなり重い税を取り立てられ、さらに徴兵制度による兵役の義務や小学校設置に伴う経済的負担など、新たな負担をも負わされた。そのため彼らは、全国各地でしばしば農民一揆をおこした。とくに1876(明治9)年には、地租改正に反対して、三重·岐阜•愛知・堺の4県にまたがる大規模な農民一揆がおこり、翌年、政府は地租率を地価の3%から2、5%に引き下げた。
ー方、廃藩置県・徴兵制度・秩禄処分など相つぐ改革によって、封建的諸特権をつぎつぎと奪われた士族たちの間でも、政府への不満の気運が充満していた。明治六年の政変に際して、征韓派に与して、政府を辞職した板垣退助ら旧参議の多くは、1874(明治7)年、民撰議院設立の建白書を提出して、政府の「有司専制」を鋭く攻撃したが、そのなかの一人江藤新平は郷里佐賀に帰って、同年、不平士族に擁立され征韓党の首領となって反乱をおこした(佐賀の乱)。このころから、政府の取締りは一段と厳しくなり、1875(明治8)年には、反政府的言論活動をおさえるため、讒謗律・新聞紙条例を発布した。
ついで1876(明治9)年廃刀令の公布・俸禄の停止をきっかけに、熊本県で復古的な攘夷論を唱える太田黒伴雄(1835〜76)を中心とする敬神党の乱(神風連)がおこるや、これに呼応して福岡県では宮崎車之助(1839〜76)らによる秋月の乱、山口県では元参議・兵部大輔前原一誠(1834〜76)を指導者とする萩の乱がおこるなど、政府の新政に不満をもつ士族たちの反乱が相ついだ。これらの士族反乱はいずれも、政府によって鎮圧されたが、国内には少なからず動揺を与えた。
田原坂の戦い(永濯「田原坂激戦之図」) 西南戦争は、1877年2〜9月に鹿児島の私学校生が中心となり西郷隆盛を擁し、挙兵した最大の士族反乱である。2〜3月にかけての田原坂の戦いは、そのゆくえを決した最大の戦い。熊本城に籠城する鎮台兵を救援するために派遣された政府軍と、西郷軍の主力が田原坂(熊本市の北郊)で交戦。半月にわたる攻防を征した政府軍は、3000名以上の死傷者を出しつつ、戦局の主導権を握った。
さらに、1877(明治10)年2月、反政府勢力の拠点と目されていた鹿児島において、私学校の生徒を中心とする不平士族らが、明治維新の最大の功労者の一人である西郷隆盛を擁して丘をあげ、ここに西南戦争が始まった。この戦争は戊辰戦争以来の大きな内乱となり、初めは勝敗の行方も予断を許さないほどであったが、西郷軍が熊本鎮台の攻略に失敗してから、戦局は政府軍に有利に傾いた。政府は約8カ月近い歳月を費やして、同年9月ようやく内乱を鎖圧し、西郷をはじめとする反乱軍の指導者はいずれも戦死・自殺、または処罰された。政府軍の勝利、西郷軍の敗北は、新しい徴兵制による軍隊の威力を示し、政府の権力がもはや揺るぎないものであることを明らかにした。
翌1878(明治11)年には、不平士族ー味による大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)、西南戦争の恩賞に不満を抱いた近衛兵の一部の反乱事件(竹橋事件)などがおこったが、いずれも関係者は検挙され事件は解決された。こうして、西南戦争を最後としておおむね士族の武力反乱は終わりを告げ、政府の全国統治は安定化したのである。
政府要人の暗殺
明治の初め、不平士族の新政への反抗は、また政府要人の暗殺というかたちをとって行われた。1869(明治2)年参与横井小楠(1809〜69)·兵部大輔大村益次郎、1871(明治4)年参議広沢真臣、1874(明治7)年、右大臣岩倉具視(未遂)、1878(明治11)年、参議兼内務卿大久保利通らがいずれも遺難している。
明治維新の指導者たち
数多くの明治維新の指導者たちのなかで、とくに中心的役割を果たした西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人が、ふつう維新の三傑と呼ばれている。そのなかでも西郷は大きな度量、部下に対する深い情愛、勇気と情熟、簡素な私生活などから広く世人の敬愛を得ていた。彼は清濁合わせ呑む包容力に富んだ政治家で、情にもろく、いわば日本人好みの性格のもち主だったようだ。西南戦争における悲劇的最期と相まって、現在にいたるまで最も庶民に人気のある人物である。しかし、新しい国内体制の緻密な建設計両を進めることは不得意であり、西郷の積極的な役割は、1871(明治4)年の廃藩置県をもってほぼ終わったといえるであろう。
大久保は征韓論・台湾出兵をめぐって西郷・木戸が下野したのちもただ一人政府の中心となって大きな権力をふるい、相つぐ近代化政策により日本における近代国民国家建設の基礎を築いた立役者である。最後まで政権の座にあったこともあって、西郷に比べると庶民的な人気は乏しく、反対派からはしばしば専制政治家として激しい非難をあびた。しかし、ときとしては冷酷と思えるほど沈着、冷静であり、優れた決断力と明晰な頭脳を備えた剛毅果断な人となりと、広い国際的視野に立ち現実主義に徹した政治的態度は、多くの反対を押し切って大胆な改革を実行しなければならない変革期の政治家にふさわしいものであった。また出身藩にこだわらず多くの有能な人材を登用したことも彼の業績の一つといえよう。
木戸は最も知的な感じの強い開明的な政治家で、一種、理想家肌のところがあり、その斬新で優れた着想は、維新の改革に大いに貢献した。しかし、性格的にはやや狭量で、健康にも恵まれず、とくに晩年はあいつぐ政治的激動のなかにあって病気がちで、明治政府部内での勢力は、大久保には及ばなかった。同じ長州藩出身で、木戸のもとで政治家として成長した伊藤博文や井上馨も、木戸の晩年には、むしろ大久保に接近していた。
なお、明治維新に活躍した人々の生没年・大政奉還の時の年齢(これ以前に死んだ人は死亡時の年齢、いずれも数え年)を調べてみると、前項の表のようになる。
明治維新に活躍した人々
氏名 | 出身 | 生没年 | 大政奉還時の年齢 |
---|---|---|---|
勝海舟 | 幕臣 | 1823(文政6)〜1899(明治32) | 45 |
大村益次郎 | 長州藩 | 1824(文政7)〜1869(明治2) | 44 |
岩倉具視 | 公家 | 1825(文政8)〜1883(明治16) | 43 |
山内豊信 | 土佐藩 | 1827(文政10)〜1872(明治5) | 41 |
西郷隆盛 | 薩摩藩 | 1827(文政10)〜1877(明治10) | 41 |
大久保利通 | 薩摩藩 | 1830(天保元)〜1878(明治11) | 38 |
吉田松陰 | 長州藩 | 1830(天保元)〜1859(安政6) | (30) |
木戸孝允 | 長州藩 | 1833(天保4)〜1877(明治10) | 35 |
橋本左内 | 越前藩 | 1834(天保5)〜1859(安政6) | (26) |
坂本竜馬 | 土佐藩 | 1835(天保6)〜1867(慶応3) | 33 |
井上馨 | 長州藩 | 1835(天保6)〜1915(大正4) | 33 |
榎本武揚 | 幕臣 | 1836(天保7)〜1908(明治41) | 32 |
徳川慶喜 | 将軍 | 1837(天保8)〜1913(大正2) | 31 |
三条実美 | 公家 | 1837(天保8)〜1891(明治24) | 31 |
後藤象二郎 | 土佐藩 | 1838(天保9)〜1897(明治30) | 39 |
山県有朋 | 長州藩 | 1838(天保9)〜1922(大正11) | 30 |
高杉晋作 | 長州藩 | 1839(天保10)〜1867(慶応3) | (29) |
伊藤博文 | 長州藩 | 1841(天保12)〜1909(明治42) | 27 |