琉球と蝦夷ヶ島
佐敷グスクを拠点とした尚巴志は、父を中山王とし、北山王の攀安知、南山王の他魯毎を滅ぼして、1429(永享元)年に琉球王国を建国。
14世紀末から15世紀初め、津軽海峡を渡り、蝦夷ヶ島(北海道)南部に居住地をつくった人々は、和人と呼ばれ、渡島半島南部の海岸沿いに港を整備し、「道南十二館」を建てた。
琉球と蝦夷ヶ島
沖縄では、このころ北山・中山・南山の3勢力の三山が成立して争っていた。三山はそれぞれに明(王朝)と通交をもち、王国を称していた。これら小国家の実体は、一種の部族連合であったと考えられている。佐敷グスク(城)を拠点とした尚巴志(1372〜1439)は、21歳で佐敷按司(地域の領主・豪族の意味)となり、さらに近隣を攻略して父を中山王とした。ついで北山王の攀安知(?〜1416?)、南山王の他魯毎(?〜1429)を滅ぼして、1429(永享元)年に琉球王国を建国した。琉球は首里を都とし、明(王朝)や日本と国交を結んで海外貿易を盛んに行った。琉球の船はスマトラ島・ジャワ島・インドシナ半島などに航行し、東南アジア諸国間の中継貿易に従事した。東アジアにおける重要な交易市場となった那覇の港には各国の特産品がもたらされ、琉球王国は繁栄した。またこの時代に明から甘薦(サトウキビ)が輸入され、広く栽培された。
北方では、現在の北海道、当時でいう蝦夷ケ島への人々の進出が始まっていた。14世紀、畿内と津軽地方とを結ぶ日本海交易が盛んになり、サケ、コンブなどの産物が京都にもたらされた。津軽の十三湊は商業拠点として栄えた。この地を拠点とした得宗被官の安藤(東)氏は繁栄し、蝦夷管領と称された。14世紀末から15世紀初め、人々は津軽海峡を渡り、蝦夷ヶ島南部に居住地をつくった。彼らは和人と呼ばれ、渡島半島南部の海岸沿いに港を整備し、館を建てた。これらの館は現在は「道南十二館」と通称されるが、その一つ、函館の志苔館からは越前や能登で焼かれた大甕と、37万枚にのぼる中国の古銭が発掘されている。埋められた時期は15世紀前半と推定され、当時のこの地域の経済的な隆盛を知ることができる。
和人たちは津軽の安藤氏の支配下に属し、徐々に勢力を拡大した。蝦夷ケ島に古くから住み、漁猟を生業としていたアイヌとも交易を行った。両者の間にはしばしば衝突がおこり、ついに1457(長禄元)年、和人の圧迫に耐えかねたアイヌは大首長コシャマイン(?〜~1457)を中心に蜂起した。「道南十二館」はほとんど攻め落とされ、茂別館と上之国の花沢館を残すのみとなった。このとき、花沢館主の蠣崎氏の客分であった武田信広(1431〜94)がコシャマイン父子を討ち、蜂起を鎮圧した。信広は蠣崎氏に婿入りし、以後、蠣崎氏は道南地域の支配者に成長していく。16世紀初めには、本拠地を上之国から松前に移し、江戸時代には松前氏を名乗って大名となった。