産業革命の達成
日清戦争後、政府は清国から得た巨額な賠償金をもとに膨大な経費を投入し軍備の拡張と産業の振興を中心に「戦後経営」を推進した影響で、経済界には空前の好景気が訪れ、企業の勃興が相つぎ、著しい会社設立ブームの様相を呈した。
産業革命の達成
日清戦争後、政府は清国から得た巨額な賠償金をもとに、ぼう大な経費を投入して、軍備の拡張と産業の振興を中心に、いわゆる戦後経営を推進した。その影響で、経済界には空前の好景気が訪れ、企業の勃興が相つぎ、著しい会社設立ブームの様相を呈した。1900(明治33)年から翌年には資本主義恐慌が訪れ、銀行をはじめ産業界に大きな影響を与え、企業の倒産や操業短縮が行われたが、政府の指導によって日本銀行は普通銀行を通じて盛んに産業界に資金を供給し、また、政府は日本勧業銀行·府県の農工銀行・日本興業銀行などの特殊銀行の設立を進め、産業資金の調達と供給にあたらせた。
19世紀末、欧米先進諸国は金本位制を採用していたが、アジアでは、日本·中国など多くの国でなお銀本位体制が主流であった。しかし、金銀相場の変動などから貿易関係は不安定で、欧米諸国との貿易の発展や外資導入をはかるためにも不便であった。そこで政府は金本位制の採用をはかり、清国からの賠償金を金準備にあて、1897(明治30)年には貨幣法を制定して金本位制を実施した。
このようにして、日清戦争前から紡績業や製糸業など繊維産業部門で始まっていた産業革命は、戦後になるとさらに著しい発展をみせ、その結果、繊維産業部門を中心に資本主義が成立するにいたったのである。その模様を部門別に眺めてみることにしよう。
産業革命
機械制生産がそれまでの家内工業・手工業生産を圧倒して、工業生産力が飛躍的に増大し、資本主義が支配的な生産様式及び経済体制となる社会·経済上の変革をいう。18世紀末にイギリスにおこり、19世紀半ばころまでに欧米先進諸国で達成された。日本では1900(明治33)年ころまでに、繊維産業部門を中心に産業革命が一応達成されたが、重工業部門はかなり立ち遅れていた。なお、最近、イギリスなどでは、18世紀末イギリスでおこった「産業革命」による経済的、社会的変化は「革命」と呼べるほど急激で大きな変化ではなかったとして「産業革命」という用語の使用を避ける学者たちもでてきている。
工業
紡績業の発達
年次 | 工場数 | 錘数 | 生産高 | 輸出高 | 輸入高 |
---|---|---|---|---|---|
1889 | 28 | 215 | 67 | ー | ー |
1891 | 36 | 354 | 145 | 0.1 | 57 |
1893 | 40 | 382 | 215 | 11.0 | 65 |
1895 | 47 | 581 | 367 | 11.8 | 49 |
1897 | 65 | 971 | 511 | 140 | 54 |
1899 | 78 | 1190 | 757 | 341 | 30 |
1880年代末から企業熱は急速に盛んになり、各地に新しい会社·工場がつくられ始めた。1886(明治19)年にはわずか53だった原動機使用の工場は、1890(明治23)年の最初の恐慌にもかかわらず1891(明治24)年には495の多きにのぼり、日清戦争の勝利はその飛躍的発展をもたらした。なかでも紡績業の発展はめざましく、左の表が示すように、綿糸生産嵩は1889〜99年の間に11倍強となった。
原料の綿花を中国·インド・アメリカなどから輸入して盛んに綿糸生産にあたったが、輸入綿糸を駆逐して国内の需要を満たしたばかりでなく、綿糸輸出税と綿花輸入税の撤廃(1894年と1896年)など、政府の積極的奨励策のもとで、中国·朝鮮への輸出を急速に増大し、輸出高は1897(明冶30)年には輸入高を完全に上回った。
また、製糸業は最も重要な輸出産業として発展し、同じ10年間に生産高はほぼ2倍になり、1894(明冶27)年には器械製糸による生産高が在来の座繰製糸の生産高を上回り、大規模な製糸工場もつくられるようになった。製品の生糸は、フランス産・イタリア産・清国産の生糸との国際競争に打ち勝って、アメリカをはじめヨーロッパ諸国にも盛んに輸出された。原料は国産の繭を用いたので、製糸業は外貨の獲得という点では、最も貢献度が高かった。そのほか絹織物·綿織物·製紙・製糖業などの軽工業部門でも、しだいに機械制生産がそれまでの手工業生産を圧倒していった。とりわけ綿織物業の部門では、1897(明治30)年に豊田佐吉(1867〜1930)らの考案した国産力織機が、それまで農村で行われていた手織機による問屋制家内工業生産を、小工場での機械制生産に転換させていった。
ー方重工業部門はまだ立ち遅れていた。政府は官営による軍事工業の拡充を進めたが、民間産業としては、政府の造船奨励策のもとで、三菱長崎造船所など二、三の大規模な造船所が発達したほかは、みるべきものは少なかった。とくに重工業の中心として、軍事工業の基礎となるべき鉄鋼の生産体制は貧弱で、軍備拡張や鉄道敷設の必要などにより日清戦争後急増しつつある需要の大部分を外国からの輸入に頼っていた。そこで政府は鉄鋼の国産化をめざして大規模な官営製鉄所として八幡製鉄所を設立した。八幡製鉄所はドイツの技術を取り入れて、1901(明治34)年開業し、清国の大冶鉱山の鉄鉱石を原料とし、国産の石炭を用いて鉄の生産にあたった。当初は技術的困難に悩まされたが、日露戦争後にはようやく軌道に乗り、国内の鉄鋼のほとんど70〜80%を生産した。しかし一般的には、重工業部門は軽工業部門に比べて立ち遅れ、とくに民間企業は貧弱で、その本格的発展は日露戦争後に待たねばならなかった。
交通・運輸
近代産業の発展や軍事輸送の必要から、日清戦争後に交通・運輸機関も著しい発展をとげた。1896(明治29)年には門司・長崎間、1901(明治34)年には神戸・下関間の鉄道が民間の手で全通した。総営業キロ数も飛躍的に伸びたが、とくに目立つのは、日清戦争後も引き続き民営の鉄道が大いに発達したことで、1902(明治35)年には全延長の約70%を私鉄が占めたのである。なお、京都・名古屋・東京などの大都市では1890年代から1900年代につぎつぎと市街電車が開通し、市民の足として親しまれた。
海運業では、造船奨励法、航海奨励法の制定(ともに1896年)などの政府の保護·奨励策のもとで、日本郵船会社がインド(ボンベイ)航路・北米(シアトル)航路・欧州(アントゥェルペン)航路、蔽州(メルボルン)航路を、東洋汽船会社も北米(サンフランシスコ)航路を開設するなど、外国向けの遠洋航路がつぎつぎと開かれていった。
財政・金融
財政面では軍備拡張や産業振興·教育施設の拡充・台湾植民地経営など、いわゆる「戦後経営」のためにばく大な経費を必要としたので、日清戦争後、財政は膨張の一途をたどった。そのため国債発行・地租増徴のほか、営業税·砂糖税・麦酒税の新設、酒・醤油税の増徴など相つぐ税の新設・増徴が行われた。その結果、税収入に占める地租の割合は、大幅に低くなり、明治初期の地租中心の税制度から間接消費税中心の税制度がととのえられた。
人口と職業
1872(明治5)年の総人口は3311万人で有業人口の81.4%が農林業、4.8%が鉱工業、5.5%が商業であった。1900(明治33)年になると内地の総人口4482万人、有業人口の66.6%が農林業、13.5%が鉱工業、8.6%が商業であった。このように農林業人口の減少、鉱工業・商業・交通業人口の増加は明らかな対照をみせている。
貿易
貿易面では、まずその総額が日清戦争後、すばらしい勢いで増加した。1902(明治35)年は1887(明治20)年の5倍以上にもなっている。つぎに目立つことは1882(明治15)年以来の輸出超過が、日清戦争後再び輸入超過に変わっていったことである。これは、綿花などの工業原料品や機械・鉄などの重工業製品の輸入が増大したためと考えられる。
輸出入品の内容をみると、日清戦争前の輸入品は綿糸・砂糖·毛織物などの加工品が多く、輸出品は生糸・茶・水産物・銅など日本特産の食料や原料品が多かった。それが日清戦争後になると、輸入品では綿花などの原料品が目立つようになり、輸出品では綿糸が生糸についで第2位となるなど加工品が増えており、日本が近代工業国ヘ一歩を進めたことが明らかになっている。輸出の主な相手国は、アメリカが第1位で、第2位は清国であった。
農業
こうした資本主義の発展は、農業面にも大きな影響を与えた。工業に比べると、米作を柱とする零細経営が中心であった農業の発達は遅々としていたが、松方財政の影響による不況から抜け出した1890年代になると、米価をはじめ農産物の価格も上昇し、農村は比較的安定した発展を示すようになった。大豆粕などの金肥の普及や品種改良 ❶ にみられる農業技術の向上によって、米の生産高は徐々に上昇したが、近代産業の発展による非農業人口の増大と生活水準の向上は、農産物とくに米の国内需要を増大させた。そのため米の供給はしだいに不足がちとなり、日清戦争後には朝鮮などから毎年米を輸入するようになった。
交通機関の発達・外国貿易の隆盛などに伴う商品経済の農村への浸透は、農村の自給体制をつき崩して、商業的農業をいっそう推し進めた。生糸の輸出に剌激されて桑の栽培や養蚕が盛んになったが、反面、自家用衣料の生産はほとんど行われなくなり、また、安価な外国産の原綿が原料にされたため、国内の綿花生産は衰えた。商業的農業の発展に応じて農業協同組合も芽ばえ、1900(明治33)年には産業組合法が成立して信用・販売·購買・生産についての協同組合がつくられることになった。
そうしたなかで農民層の分解はさらに進み、1880年代から90年代にかけて小作地率は増加を続けた。大地主の間では、借金などのために農民が手放した農地を買い集め、小作人にこれを貸付けて耕作させ、自らは耕作を離れて、いわゆる寄生地主となる傾向が強まった。地主は小作料をもとでに公債や株式に投資したり、自ら企業をおこしたりして、しだいに資本主義との結びつきを深めるとともに、地方有力者として地方自治体の役職についたり、議員になるなど、日本の政治の基底をかたちづくったのである。