禁教と寺社
- 1612(慶長17)年 直轄領に禁教令
- 1614(慶長19)年 高山右近ら300余人をマニラとマカオに追放
- 1622(元和8)年 元和の大殉教
- 1637(寛永14)年〜1638 島原の乱
- 1640(寛永17)年 幕領に宗門改役をおく
- 1665(寛文5)年 諸宗寺院法度、諸社禰宜神主法度制定
禁教と寺社
幕府は、はじめキリスト教を黙認していた。しかしオランダ人の中傷もあって、キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを強く感じ、また信徒が信仰のために団結することの恐れから、1612(慶長17)年、直轄領に禁教令を出し、翌年これを全国に及ぼして信者に改宗を強制した。こののち幕府や諸藩は、宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国外追放など激しい迫害を加えた。高山右近ら300余人を1614(慶長19)年、マニラとマカオに追放したのは国外追放の例であり、1622(元和8)年、長崎で55名の宜教師·信徒を処刑した(元和の大殉教)のは、激しい迫害の例である。多くの信者は改宗したが、一部の信者は迫害に屈せず、殉教したり、また潜伏してひそかに信仰を持続した者(隠れキリシタン)もあった。
元和の大殉教:『元和八年長崎大殉教図』 1622年、長崎西坂において、55人の宣教師・信者が火刑・斬首刑に処せられた。海外に重大事として報告されたことから、大殉教と称された。
1637(寛永14)年から翌年にかけて、島原の乱がおこった。この乱は、打ち続く飢饉であるにもかかわらず、島原城主松倉重政(?~1630)父子や天草領主寺沢広高(1563~1633)が領民に苛酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した百姓の一揆である。島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地で、一揆勢のなかにも有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。小西行長の遺臣益田好次(?〜1638)の子で16歳の天草四郎時貞(1623?〜38)を首領にいただいて、一揆勢3万余りは原城跡に立てこもった。幕府は板倉重昌(1588〜1638)を派遣して鎮定にあたらせたが失敗に終わり、ついで老中松平信綱(1596〜1662)が九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員して原城を包囲し、兵糧攻めにした。また、オランダ船による海上からの砲撃を求め、ようやくこの一揆を鎖圧した。
幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根だやしにするため、とくに信者の多い九州北部などでイエス像·マリア像などを表面に彫った真鍮製の踏絵を踏ませる絵踏を行わせた。さらに禁教を推し進めるために、1640(寛永17)年には幕領に宗門改役をおき、1664(寛文4)年には諸藩にも宗門改役が設置され、宗門改めが実施された。
ところで一向一揆が弾圧されたのち、キリスト教も日蓮宗不受不施派も幕府によって禁圧されたのは、これらの宗教がいずれも幕藩権力=王権よりも宗教を優越させる信仰をもっていたからである。近世では、幕藩権力にしたがう宗教のみが存在を許容されることになった。
幕府は、これらの禁止した宗教を人々に信仰させないようにするため、寺請制度を施行した。誰もが檀那寺をもち、仏教は主たる宗教となったが、かといって仏教以外の宗教がキリスト教のようにすべて禁圧されたのかといえば、そうではない。神道・修験道・陰陽道なども、仏教に準じた宗教として幕藩権力によって容認されていた。仏教は家単位で信仰され、現代にいたる仏教行事(彼岸・盆など)が江戸時代から習俗となったのに対し、神社は村落単位で信仰され、五穀豊穣の祈念の神事や収穫祭(秋祭り)を地域の神社の神職が担った。病気や身心の悩み事があれば、修験者(山伏)の祈祷や薬草・丸薬に依存した。よい名前をつけようと姓名判断を陰陽師に依頼したり、家の普請に際しては方位による家相図の作成を陰陽師に頼んだ。そのほか猿回しに厩の祓いを、万歳に新春の言祝ぎを、盲僧に寵祓いをしてもらうなど、巡歴する宗教者にも依存した。
全国の仏教寺院の統制は本山や本寺に末寺を掌握させる(本末制度)をとった。幕府(家綱)は寺院法度を、1601(慶長6)年から宗派組織のまとまりをもっていた天台・真言・禅・浄土宗などの本山・本寺にあてて46通出し、各宗派ごとに本山・本寺の地位を保証し、合わせて宗派末寺の編成と教団組織化の権限を与えた。その後も日蓮宗・浄土真宗などそのほかの宗派にも及び、各宗派の本末組織がととのった1665(寛文5)年には、幕府は宗派の違いを超えた仏教寺院僧侶全体に共通の諸宗寺院法度を示した。また、教団の幕府への窓口として江戸に触頭を設けさせた。
神社については幕府(家綱)は同じく1665(寛文5)年に諸社禰宜神主法度を制定した。第l条で、諸社の禰宜・神主などはもっぱら神祇道を学び神体を崇拝し、神事祭礼を勤めることを命じた。両部神道(真言宗)・山王一実神道(天台宗)のような神仏習合したものではない、吉田神道のような唯一神道を学ぶことが命じられた。また第2·3条を通して全国の多数の神社が吉田家を本所とする組織を形成させた。しかし幕府は白川家による神社支配も容認し、両家による各地中小神社の支配は明治維新まで続いた。
修験道は、天台系(本山派)は聖護院門跡が、真言系(当山派)は醍醐寺三宝院門跡が本山として末端の修験者を支配した。また陰陽道は、公家の土御門家が全国の陰陽師を配下におく組織化を進めた。