天草四郎時貞
天草四郎像 ©Public Domain

天草四郎時貞


Previous Post

Next Post

天草四郎時貞 あまくさしろうときさだ( A.D.1621〜A.D.1638)

キリスト教信仰を介して合流した肥前島原半島と肥後天草諸島の一揆、島原の乱の総大将として幕府軍と戦った。天草四郎とも呼ばれる。キリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田好次の子。1637(寛永14)年島原の乱の首領に推され、キリシタン大名有馬晴信の故城である原城に籠城したが、同15年2月討死、長崎で梟首された。

天草四郎時貞

キリスト教信仰を介して合流した肥前島原半島と肥後天草諸島の一揆、島原の乱の総大将として幕府軍と戦った。神の使者として崇拝された。2万7000余人の農民を率いて島原に籠城。12万人の幕府援軍の前に戦死した。

島原の乱で担ぎ上げられた伝説の少年

天草四郎 ここに登場する

1637年(寛永14)、肥前国島原で2代20年にわたる領主松倉氏の苛政とキリシタン弾圧に耐えかねた領民が蜂起した。これに、領主寺沢氏による苛政に苦しめられていた肥後国天草の領民が加わり、総勢2万7000余にもなる反乱軍となった。世にいう「島原の乱」である。島原、天草の地は、それぞれキリシタン大名の有馬晴信小西行長の所領であった。そのためキリシタンの多い土地であったが、江戸開幕後に移封された寺沢広高と松倉重政の両領主は、幕府への忠節の証としてキリシタンを迫害。松倉は迫害だけでなく、重税を課すなど圧政をしき、年貢を納められない領民を「蓑踊り」と称して、みのに火をつけるなどの悪行を重ねた。領民の怒りは、ついに沸点を超えたのである。報を受けた幕府は、板倉重昌を上使として送り九州諸藩を率いさせる。一方、反乱軍は原城に立て籠もり、板倉重昌を討ち取り、約4か月にわたって12万にものぼる幕府軍を相手に徹底抗戦した。一揆を指揮したのは、肥後の旧領主小西行長の旧臣たちであった。彼らが一揆軍の結束を図
るための精神的な支えとして担いだのが、天草四郎時貞(益田時貞)という少年であった。

現代の生証人:キリシタンの南蛮絵師で、島原の乱の副将格だったが幕府側に寝返り、ただひとり赦免されて生き残った山田右衛門作やまだえもさくの口述書は、天草四郎時貞や島原の乱の重要な研究資料となっている。

総大将に頂かれた眉目秀麗のカリスマ

天草四郎時貞は、幼いときから学間に秀でて長崎などに遊学、そこでキリスト教に入信し洗礼を受けた。また、利発さと同様に、眉目秀麗びもくしゅうれいで「処女の如し」と謳われた容姿も天使と崇められたカリスマ像の形成に大きく影響していると思われる。高位にもない10代の少年が救世主として崇敬を一身に集め、総大将に頂かれたという事実には瞠目どうもくせざるを得ない。しかし、数と戦闘力に勝る幕府軍を相手に、所詮勝ち目はなかった。板倉ののちに幕府軍を率いた松平信綱は兵糧攻めを行い、さらにオランダに依頼して海上から砲撃を加える。そして、ついに総攻撃を仕掛け、原城は三の九、二の丸と次々に落ちた。幕府軍の猛攻はとまらず、ついに本丸にも火の手が上がる。それでも一揆軍は応戦。武器が尽きると、鍋や釜なども投げつけて最後まで抵抗した。1638年、島原の乱は途中逃げ出した者を除き、最後まで籠城を続けた者はすべて幕府の手によって殺害されるという結末を迎えた。落城の間際、天草四郎時貞は「いま籠城している者たちは来世まで友になる」と言葉を残す。四郎の顔を知らぬ幕府は、捕縛した四郎の母親に、四郎と年格好の似た少年たちの打ち首にした首の中から、四郎の首を検分させたという。島原の乱後、寺沢と松倉の両領主は処分された。そして、この乱を最後に、幕末にいたるまで、日本での内戦は途絶えたのである。

参考サイト

島原の乱
島原陣図屏風 戦闘図(秋月郷土館蔵)画像出典:いま蘇る、キリシタン史の光と影。

いま蘇る、キリシタン史の光と影。| 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産をめぐるウェブマガジン

広告
Previous Post

Next Post