第1回ポーランド分割(1772):七年戦争後、王位継承をめぐりポーランド国内の混乱に乗じて、ロシア・プロイセン・オーストリア3国がおこなう
第2回ポーランド分割(1793):フランス革命の余波で国内が改革派と保守派に分かれて混乱、ロシア・プロイセンがおこなう
第3回ポーランド分割(1795):ロシア・プロイセン・オーストリアがおこない、ポーランドはいったん消滅する
ポーランド分割
16世紀後半にヤギェウォ朝(1386〜1572)(リトアニア=ポーランド王国 西スラヴ人の動向)が絶えたポーランドでは、選挙王政がおこなわれていた。しかし、1733年には王位継承をめぐってフランス・ロシア・オーストリアを巻きこむ戦争がおこった。他方、16世紀以来、エルベ川以東のプロイセンやポーランドの国内では、のちのユンカーにあたる有力者や貴族層が、農奴制を強化しながら穀物を増産し、これを西ヨーロッパに輸出していた(再版農奴制)。とくにポーランドでは、こうして貴族が西欧文化をとりいれた豊かな生活を送る一方、商業は外国人にゆだねられ、農民は重い賦役に苦しめられていたため、国家としてのまとまりを著しく欠いていた。
七年戦争後、王位継承をめぐって再びポーランドの国内が混乱した。この機会に乗じて、1772年、ロシア・プロイセン・オーストリア3国が、第1回ポーランド分割をおこなった。その結果、ロシアはドヴィナ、ドニエプル川以東の白ロシア(ベラルーシ)、プロイセンは西プロイセン、オーストリアはガリシアを獲得した。
左からエカチェリーナ2世(ロシア)、スタニスワフ2世アウグスト(ポーランド・リトアニア共和国王)、ヨーゼフ2世(オーストリア)、フリードリヒ2世(プロイセン王)。
さらに、フランス革命の余波で国内が改革派と保守派に分かれて混乱すると、ロシアのエカチェリーナ2世は、プロイセンとともに再び分割を強行した(1793)。これによって、ロシアは白ロシアやウクライナの一部を奪取し、プロイセンもダンツィヒ(グダニスク)などをえた(第2回ポーランド分割)。これに対して、ポーランド側でも、コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ)(1746〜1817)が抵抗運動を組織したがおよばず、1795年には全土がオーストリアを含む3国に分割されて、ポーランドという国はいったん消滅した(第3回ポーランド分割)。