マゼランと世界周航
1544年に書かれ17世紀前半まで5ヶ国語合計35版発行されたドイツ人セバスチャン・ミュンスターによる著作「Cosmographia」に掲載されているアメリカ図。ブラジルはCanibali「食人国」。パタゴニアはRegio Gigantum 「巨人国」とか書かれている[53]。本図は1561年の版からの着色図。©Public Domain

マゼランと世界周航

世界周航を初めて成し遂げたポルトガル人のフェルディナンド・マゼランは、ポルトガル王の不興をかい、スペインに移り、彼の世界周航計画について、スペイン王カルロス1世(のちのカール5世(神聖ローマ皇帝))の援助をうけた。1521年戦隊はフィリピンに到達したが、マゼランは現地の紛争に巻き込まれ、セブ島東岸の小島マクタン島で現地人に殺された。

マゼランと世界周航

ヨーロッパ人の東アジア進出 ポルトガルの植民地と貿易 大航海時代 大航海時代地図
大航海時代地図 ©世界の歴史まっぷ
世界周航を初めて成し遂げたのはフェルディナンド・マゼラン(マガリャンイス 1480頃〜1521)である。ポルトガル人のマゼランは、ポルトガル王の不興をかい、スペインに移り、彼の世界周航計画について、スペイン王カルロス1世(のちのカール5世(神聖ローマ皇帝))の援助をうけることになった。1519年5隻の船、280人の乗組員でスペインのサン・ルカル港を出港、ラプラタ河口から南アメリカの東岸を南下し、ついに3隻の船でマゼラン海峡を越え、広い海にでた。彼が太平洋(平穏な海)と命名したこの海の苦しい単調な航海を続け、1521年戦隊はフィリピンに到達した。マゼランはここで現地の紛争に巻き込まれ、セブ島東岸の小島マクタン島で現地人に殺された。出発から3年後の1522年9月、残った1隻の船でスペインに帰着したのはデル・カーノ以下18人であったという。
フェルディナンド・マゼラン
チリ・マゼラン海峡の町プンタ・アレーナスにあるマゼラン像 ©Public Domain

マゼラン
ポルトガルの下級貴族出身で、モロッコ遠征の際ムーア人と取り引きして王の不興を被り、スペインに逃亡した。スペイン王カルロス1世の許可をうけて、1519年8月10日世界周航に出発し、1521年4月27日マクタン島でラプ=ラプ率いる現地人に殺害された。

ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はアフリカを回る南東の航路に加え、マゼラン海峡を回る南西航路が開かれ、地球が丸いことは実証された。トルデシリャス条約による植民地分界線は東インドにも適用されたので、この地域でスペイン・ポルトガル両国の抗争が続いた。結局、1529年サラゴサ条約で、スペインのフィリピンとポルトガルのモルッカ諸島支配を相互に承認することになった。

理論上は北米を回る北西航路、ロシアの北を回る北東航路も東洋に到達できる可能性があった。失敗には終わったが、この2つのルートの探検も試みられた。北西航路探検は、1509年のセバスチャン・カボット、フランス王の命をうけた1524年のジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(1485頃〜1528)、1534年から1536年にかけてのジャック・カルティエ(1494〜1557)、1609年、1610〜1611年のヘンリー・ハドソン(1550頃〜1611)などがおこなっている。北東航路はイギリスが開拓を試みている。1553年、ヒュー・ウイロビー(?〜1554)とリチャード・チャンセラー(?〜1556)は北東航路探検をおこなった。ウイロビーはロシアのノヴァヤゼムリャ発見後部下とともに凍死したが、チャンセラーはアルハンゲリスクからモスクワにいたり、イギリスとロシアの通商ルートを開くという貢献をすることになった。

近代ヨーロッパの成立年表

 イタリア・ルネサンス(14〜16世紀)
1450頃ヨハネス・グーテンベルク、活版印刷技術発明
1488バルトロメウ・ディアス、喜望峰到達
1492スペイン、グラナダを占領(レコンキスタ完了)
 クリフトファー・コロンブス、アメリカに到達
1494トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル)
1495レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の晩餐」制作(〜1498頃)
1498ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到達
1517マルティン・ルター、九十五カ条の論題発表
1519フェルディナンド・マゼランの部下、世界周航(〜1521)
1521エルナン・コルテスアステカ帝国征服
 イタリア戦争(第三次イタリア戦争 〜1526)
1524ドイツ農民戦争
1529オスマン軍の第一次ウィーン包囲
1533フランシスコ・ピサロ、ペルーのインカ帝国征服
1534国王至上法発布(イギリス国教会成立)
 イエズス会設立
1541ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ市政掌握
1543ニコラウス・コペルニクス『天球回転論(地動説)』刊
1545トリエント公会議(〜1563)
 16世紀後半、価格革命おこる
1555アウクスブルクの和議(ルター派の信仰認められる)
1558エリザベス1世の即位(〜1603)
1559カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争終結)
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