ヨーロッパのイスラーム文明
自然科学の分野は、クレモナのジェラルドによって翻訳されたイスラームのイブン=シーナーの『医学典範』は、ヨーロッパでもっとも権威ある医学書とみなされ、16世紀まで各地の医学校で教科書として使われていた。
ヨーロッパのイスラーム文明
東ローマ帝国や西ヨーロッパの人々は、拡大を続けるイスラーム世界に恐れを抱き、イスラーム教には根強い敵対意識を持ち続けた。彼らはイスラーム教徒をサラセン人と呼んだが、この言葉には侮蔑と敵意が込められていた。
また、イスラーム教を「コーランか、剣か」の二者択一を迫る宗教とみなすことも、高度なイスラーム文明に対するコンプレックスに根ざしていた。
カール大帝が神の戦士としてサラセン人に懲罰を加える『ローランの歌』には、当時のキリスト教徒の意識が如実に示されている。近代にいたるまでのヨーロッパでは、ムハンマドを好色な背徳者とし、イスラーム教を偽りの宗教とみなす考えが一般的なイスラーム認識であった。
しかしこのような敵対関係にも関わらず、東ローマ帝国とイスラーム世界の交易は活発に行われ、西ヨーロッパとイスラーム世界を結ぶ地中海貿易が途絶えることはなかった。11世紀以降には、ヨーロッパのキリスト教徒は、イベリア半島の中部の町トレドに赴いてアラビア語を学び、イスラーム教徒による哲学や医学研究の成果を吸収することに努めた。アラビア語の著作はつぎつぎにラテン語に翻訳され、来るべきルネサンスの基礎づくりが進められた。
翻訳
カルタゴ生まれのイタリア人コンスタンティヌス・アフリカヌス(1017〜1087)は、40年近くをイスラーム世界で過ごし、アラビア語によるアリストテレス研究をラテン語に翻訳した。同じく北イタリアのクレモナに生まれたジェラルド(1114頃〜1187)は、トレドでアラビア語を学んだのち、天文学・数学・医学などの著作をつぎつぎとラテン語に翻訳した。
こうして13世紀半ばころまでには、アリストテレスの哲学書とイスラーム教徒によるおもな著作はほとんどラテン語に翻訳されたが、なかでもイブン=シーナーとイブン・ルシュドの哲学研究は、ヨーロッパの思想界に大きな影響を与え、カトリックの神学体系の樹立に貢献した。
自然科学
また自然科学の分野でも、クレモナのジェラルドによって翻訳されたイブン=シーナーの『医学典範』は、ヨーロッパでもっとも権威ある医学書とみなされ、16世紀まで各地の医学校で教科書として使われていた。
代数学
また代数学では、フワーリズミーの数学書がラテン語に翻訳された時に、代数学を意味するアルジェブラ Algebra (アラビア語の al-jabr) の用語が確定した。
光学
さらに光と色の伝播や光の屈折を論じたイブン・ハイサム(965〜1040)の『光学の書』は、12世紀末に翻訳が完成し、ヨーロッパ近代科学の誕生に大きな影響をおよぼした。
製糸法
イスラーム教徒は、751年タラス河畔の戦いで唐(王朝)軍隊を破り、その捕虜から麻布を原料とする製紙法を学んだ。かれらはサマルカンドやバグダード、カイロなどに製紙工場を建設し、やがてその技術はイベリア半島とシチリア島をへて、12世紀ころヨーロッパに伝えられた。
同じく中国起源の羅針盤と火薬も、イスラーム世界を経由してヨーロッパに伝えられた。
インドから伝えられた砂糖や木綿は、10世紀ころまでに西アジア社会に普及し、十字軍の将兵によってヨーロッパにもたらされた。