七月革命とその影響 七月革命
民衆を導く自由の女神(ウジェーヌ・ドラクロワ画/ルーヴル美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

七月革命とその影響

1830年7月、ウィーン会議で復活したブルボン朝の反動政治を倒し七月王政を成立させたパリの市民革命によりウィーン体制の一部が崩壊し、各国に波及した。ポーランド反乱・イタリア反乱・青年イタリア結成・英第1回選挙法改正。

七月革命とその影響

世界史対照略年表(1700〜1900)詳細版
世界史対照略年表(1700〜1900)詳細版 ©世界の歴史まっぷ

ブルボン家の復活したフランスではルイ18世(フランス王) Louis XVIII (位1814〜24)が即位し、憲章という名称を使った憲法を制定し、市民の選挙権を大幅に制限し、反動的政治を進めた。ついでシャルル10世(フランス王) Charles X (位1824〜30)が即位すると亡命貴族に財産を保証したり、軍隊の統帥権を掌握したりして反動的政治をさらに推し進め、国民の不満を外にそらすためにアルジェリア出兵をおこなった。1830年5月、国王は内閣不信任案を決議した議会を解散したが、7月の選挙では国王による選挙妨害を乗りこえて270対145で国王反対派が多数を占めたので、召集前に解散命令を出し、選挙結果を無視し、さらに出版に厳重な統制を加えた。

七月革命とその影響
民衆を導く自由の女神(ウジェーヌ・ドラクロワ画/ルーヴル美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

「民衆を導く自由の女神」七月革命の栄光の3日間を題材にした、ロマン主義画家ドラクロワの作品。トリコロール(三色旗)を掲げて民衆を導く自由の女神を中心に、右横には二丁の拳銃を持つパリのわんぱく小僧、左横にはドラクロワ自身とされるシルクハットの男性、その足元には自由のための戦いでの死者が描かれている。

このため市民は7月27日にパリにおいて決起し、「栄光の3日間」といわれる戦闘がおこなわれて、国王側は敗北した。革命派内部では共和派と立憲王政派との対立があり、その妥協策として自由主義者として知られていたオルレアン家ルイ=フィリップ Louis-Philippe (位1830〜48)が国王(「フランス国民の王」)となり、やや緩和された制限選挙制の立憲君主政が成立した。これを七月王政という。

正統主義 ウィーン体制 ウィーン会議 ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

七月革命 Révolution de Juillet によってウィーン体制の一部が崩壊したことは、ヨーロッパ各国に衝撃を与えた。オランダの支配下にあった南ネーデルラント(ベルギー 地図❷)では同年8月ブリュッセル Brussels において暴動が発生し、10月独立宣言が発せられて臨時政府が樹立され、レオポルド1世(ベルギー王) Leopold I (位1831〜65)が王位についた。翌31年ロンドン会議で独立が承認され、1839年永世局外中立国として承認された。ドイツではザクセンなどで民衆の立憲運動が暴動化したが、その一方で1831年アメリカから帰国した経済学者フリードリヒ=リスト F.List (1789〜1846)の思想的影響をうけて、1834年ドイツ関税同盟 Zollverein が発足し、経済的統一がほぼ完成した。

ドイツ関税同盟 ドイツ関税同盟地図
ドイツ関税同盟地図 ©世界の歴史まっぷ

イタリアでは、カルボナリが蜂起したが失敗し(カルボナリの反乱)、その党員であったマッツィーニ Mazzini (1805〜72)は亡命先であるマルセイユにおいて秘密結社から大衆政党へと脱皮すべく「青年イタリア」 Giovine Italia を結成した。イギリスでは国内経済の停滞もあって地主支配への不満が高まり、32年には腐敗選挙区を廃止する第1回選挙法改正が実現している。

ポーランド反乱
ポーランドのプロメテウス 失敗したポーランド11月蜂起の寓意(オラース・ヴェルネ画/Polish Library in Paris蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

その他、スペインでは立憲運動と王位をめぐる争いが深刻化し、カルリスタ戦争 Guerras Carlistas (第1次 1833〜39)が勃発する一方、ポーランドではロシアの支配から離脱をめざす反乱が11月発生し、臨時政府が樹立されたがロシア軍に鎮圧され、自治権が大きく制限されて、ロシアの軍事的監視下におかれ、ロシア化が進行することになった(ポーランドの反乱(1830))。

ポーランドの作曲家ショパン Chopin (1810〜49)は1831年秋ワルシャワ陥落の報を聞いて衝撃をうけ、ハ短調練習曲「革命」(作品10の12)を作曲したといわれている。

オランダ:ネーデルラント連合王国初代ウィレム1世(オランダ王)・ベルギー独立(1830)・第2代ウィレム2世(オランダ王)(位1840〜), ベルギー:ベルギー王国初代レオポルド1世(ベルギー王), ドイツ:ドイツ連邦, イギリス:大ブリテン=アイルランド連合王国ハノーヴァー朝3代ウィリアム4世(イギリス王)(位1830〜1837), スペイン:スペイン・ブルボン朝6代フェルナンド7世(スペイン王), ポーランド:ポーランド立憲王国2代ニコライ1世

広告