後期百年戦争とフランスの集権化
1415 アジャンクールの戦いで大勝したイングランドはトロワ条約によりフランス王位継承権を認めさせることに成功し、ヘンリー6世(イングランド王)は英仏両国の国王として即位したが、支配地域は北部に限られ、東部はブルゴーニュ公、ロワール川南部はヴァロワ家のシャルル7世がそれぞれ支配し、フランスは3分されることになった。
後期百年戦争とフランスの集権化
その後、フランスではシャルル6世(フランス王)(位1380〜1422)が狂気の発作を起こすようになり、国内はオルレアン公・アルマニャック伯側とブルゴーニュ公側に別れて内乱状態に陥った。またイギリスでは、エドワード3世(イングランド王)に次いで即位したリチャード2世(イングランド王)がワット・タイラーの乱鎮圧後次第に専制化して諸侯や議会の反発を招き、ついにランカスター公のヘンリー(ヘンリー4世(イングランド王))により王位を追われ、ランカスター朝の成立を見ることになった。
1415年、ヘンリー5世(イングランド王)はフランスの内乱に乗じてノルマンディーに侵入し、ブルゴーニュ派と結びアザンクールでフランス王軍に大勝(1415 アジャンクールの戦い)、トロワ条約(1420)により自らのフランス王位継承権を認めさせることに成功した。
その結果、1422年ヘンリー5世(イングランド王)とシャルル6世(フランス王)が相次いで没すると、ヘンリーの子ヘンリー6世(イングランド王)は、英仏両国の国王として即位した。
だがその支配地域は北部に限られ、東部はブルゴーニュ公、ロワール川南部はトロワ条約により王位継承権を否認されたヴァロワ家のシャルル7世がそれぞれ支配し、フランスは3分されることになった。
1429年、イギリス軍は南下をはかり、ロワール川中流の要衝オルレアンを攻囲(オルレアン攻囲戦)、持久戦の様相を示していた。ここに登場した少女ジャンヌ・ダルクは、わずかの兵を率いてオルレアンの囲みを解き、いっきに北上してランスを陥れ、シャルル7世(フランス王)の戴冠式を実現させた。
ジャンヌはまもなく敵側に捕らえられ処刑されたが、シャルル7世はブルゴーニュ公とアラスの和約を結びイギリス軍を孤立させていった。
そして1437年には首都パリを、続いてノルマンディー・ギエンヌを回復し、1453年にはついにカレーを除く全国土からイギリス勢力を駆逐して、百年戦争は終結した。
フランスは、シャルル7世(フランス王)の時代に官僚制と常備軍の整備が進み、さらに大商人ジャック・クールら上層市民層と提携して聖俗諸侯を抑え、絶対王政への道を開いていった。次のルイ11世(フランス王)の代には、国家統一上最大の障害であったブルゴーニュ公領も併合され、中央集権がほぼ達成された。
百年戦争とバラ戦争に関する系図
全体の家系図はこちら 百年戦争前後のイングランドとフランスの君主一覧と系図 – 世界の歴史まっぷ
ジャンヌ・ダルクの裁判
イギリス軍の手にわたったジャンヌ・ダルクは、1431年ルーアンでの宗教裁判の結果、異端として火あぶりの刑に処せられた。その理由は、男装・男髪であること、天使や聖女を信仰すること、聖職者の仲介なく信仰すること、父母を見捨てシャルルに王国再建を約束したこと、などであった。1456年、ジャンヌの名誉回復裁判がシャルル7世の命によりおこなわれ、以後は彼女はしだいに神格化されていった。