東アジアの海洋世界
琉球王国の中継貿易  琉球王国は中国との朝貢関係を利用して、中継貿易の中心地として繁栄した。図は中国から那覇港に帰国した「進貢船」とそれを歓迎する多くの船を描いたもの (画: ©Public Domain)

東アジアの海洋世界

「陶磁の道」といわれるように海による交易品の中心となったのは中国産の陶磁器(染付)であった。原料となる磁土は中国でしか発見されていなかった。オスマン帝国トプカプ宮殿をはじめ、各地にコレクションが残されている。ムスリム商人は原料になるイランのコバルトを中国に輸出し、中国でつくられた染付を中東・ヨーロッパ各地にもたらした。朝鮮では高麗の時期に技術が伝わり、高麗青磁がつくられた。日本では豊臣秀吉の朝鮮侵略時に連れて来られた陶工たちにより磁器作成が始められ、とくに積み出し港の名から伊万里焼と呼ばれた。

東アジアの海洋世界

7世紀のイスラーム教の成立はイスラーム帝国の興隆をもたらした。アラブやイランのムスリム商人たちは8世紀以後、海上に進出し、中国の沿岸に達した。唐代・宋代の時期には貿易港であった広州や泉州には外国人の居留地として蕃坊ばんぼうが設けられた。

蕃坊:蕃坊とは蕃人(外国人)の住む坊市(市街)の意味。在留外国人のなかから徳望のある者を蕃長などの役職に任命した。

一方で、中国人も10世紀からさかんに海上に進出した。この背景には中国の経済発展があった。農業生産の拡大は、広範な流通と手工業特産品をもたらし、対外交易の重要な品目となった。これには、各地で機業きぎょうが起こって生産が拡大した絹製品、商業の発達に対応して膨大な量が鋳造された銅銭、そして、宋代に躍進を遂げた青磁・白磁などの陶磁器などがあった。これらを、中国商人はジャンク船を利用して各地に輸出し、各地の一次産品を輸入した。その交易範囲は東シナ海から南シナ海、インド洋に及んだ。陶磁器を交易品の中心としたこのルートは、陶磁の道(セラミック・ロード)とも呼ばれる。

銅銭の輸出は宋・元ともに一時期をのぞいて禁止していたが、良質な中国銅銭の需要はきわめて高かったため、一つの商品として密貿易の形で大量にもちだされた。東は日本列島、朝鮮半島から東南アジア・インド、そして西は東アフリカ沿岸にいたるまで出土している。中でも日本は大量輸入国であった。
ジャンク船
ジャンク船 船体の構造と角形の帆を特徴とする中国船。海の道の主役であった。図は長崎港に入る「唐船」を描いた版画 ©Public Domain
染付
染付 白磁に筆で青く紋様を描いた染付が「陶磁の道」の主要な交易品となった。中国語ではチンホア(青花)、英語ではブルー アンド ホワイトと呼んでいる。(写真: ©Public Domain)

染付

「陶磁の道」といわれるように、海による交易品の中心となったのは中国産の陶磁器であった。なかでも白磁に酸化コバルトの藍(青)色をつかって文様を描いた染付が、東南アジアから中東、そしてヨーロッパで珍重された。オスマン帝国のトプカプ宮殿をはじめ、各地にコレクションが残されている。中国産の磁器がもてはやされた理由は、磁器が中国でしかつくることができなかったことにある。
磁器は磁土をもとに1300度の高温で焼いたものである。そのため非常に薄く、硬い上質な焼き物となった。しかも原料となる磁土は中国でしか発見されていなかった。磁器のはじめは11世紀の北宋といわれている。最高級のコバルトはイラン(異説あり)が原産地であった。ムスリム商人はイランのコバルトを中国に輸出し、中国でつくられた染付を中東・ヨーロッパ各地にもたらした。朝鮮では高麗の時期に技術が伝わり、高麗青磁がつくられた。日本では豊臣秀吉の朝鮮侵略時に連れて来られた陶工たちにより磁器作成が始められ、とくに積み出し港の名から伊万里焼いまりやきと呼ばれた。その後、アジア各地で輸出を主目的とした染付の生産が進められた。

元朝も海上交易を奨励し、特に泉州は世界有数の貿易港に成長した。元は2度にわたり日本に出兵した(元寇)が、日元間の交易は盛んに行われ、貿易船を利用した僧侶の往来も多かった。このように宋代・元代の時代には海の道による交易の著しい発展がみられ、政府も港に市舶司しはくしを設置して関税の徴収や貿易の統制を行なった。

市舶司:唐の中期に設置された。明代には朝貢使節の接待を職務とした。

14世紀半ば、元朝の力が衰え、日本でも南北朝の騒乱の時期になると、私貿易がさかんに行われるようになった。この中で東シナ海で倭寇わこうの活動が活発化し、朝鮮半島や中国の沿岸で交易とともに、食料や人間の略奪を行なった。この14世紀を中心とする倭寇を前期倭寇と呼ぶ。

倭寇:倭寇とは「日本人の盗賊」を意味する朝鮮・中国による呼称。構成員は一概に日本人ばかりとはいえない複雑なものであった。とくに16世紀を中心とした後期倭寇は中国人が大半を占めたと記録されている。

明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝えいらくていが即位した時期は、朝鮮半島では李成桂りせいけいが朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満あしかがよしみつが南北朝の合一(統一)を実現(1392)した直後であった。永楽帝は、洪武帝こうぶていが目指した海禁朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封さくほうを受けることで、これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和ていわの南海遠征も海洋を通じての秩序再編とその維持のためのものであった。

朝貢国の施設であることを確認するために発給された勘合符を用いたので、勘合貿易と呼んでいる。勘合符は明から50余国に発給された。日本では諸大名、寺社、境や博多の商人が実質的に勘合貿易を担った。

南海遠征終了後も継続された海禁政策のもとで中国人の海上進出は停滞した。この間に、東シナ海交易圏と南シナ海交易圏の接点に位置する琉球王国が、明との朝貢関係を利用した中継貿易で繁栄した。

琉球が明に入貢した回数は171回におよぶ。入貢回数2位の安南あんなんは89回であり、朝鮮は30回、日本は19回であった。
首里城しゅりじょうを中心とする琉球王国は、沖縄本島が北山・中山・南山ほくざん・ちゅうざん・なんざんにわかれて勢力を争っていた中の中山王・尚巴志しょうはし(1372〜1439)により1422年に統一して成立した。以後、琉球船は東南アジア各地で活発な貿易活動を進め、港の那覇を中心として交易品を東アジアにもたらした。那覇には福建から多くの中国人が移り住んで交易活動を支えた。
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琉球王国の中継貿易 
琉球王国は中国との朝貢関係を利用して、中継貿易の中心地として繁栄した。図は中国から那覇港に帰国した「進貢船」とそれを歓迎する多くの船を描いたもの (画: ©Public Domain)
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