独立戦争の開始と独立宣言
1775年4月、イギリス本国軍と北米植民地民兵の最初の武力衝突がボストン郊外のレキシントンとコンコードでおこった(レキシントン・コンコードの戦い)。5月、第2回大陸会議がフィラデルフィアで開かれ、大陸軍が組織され、ジョージ=ワシントン(1732〜1799)が最高司令官に任命され、大陸会議は1776年7月4日、独立宣言を採択した。
独立戦争の開始と独立宣言
1775年4月、本国軍と植民地民兵の最初の武力衝突がボストン郊外のレキシントンとコンコードでおこった(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地側の武器弾薬庫の接収にむかった本国軍と、ミニットマンと呼ばれる現地住民の民兵の衝突であった。
この直後の5月、第2回大陸会議がフィラデルフィアで開かれ、大陸軍が組織され、ジョージ=ワシントン(1732〜1799)が最高司令官に任命された。
レキシントン・コンコードの戦い
アメリカ独立戦争の発端となったのが1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、植民地人が redcoats と呼んでいたイギリス正規軍と植民地人のミニットマンの間でおこった武力衝突である。コンコードの農民がひそかに火器を貯えているとの情報をえたイギリスのゲージ将軍が、その軍事品貯蔵庫を破壊するため、700人の部隊を派遣した。レキシントンではこれに対抗しようとした植民地人の一団と小競り合いがあり、コンコードで捜索を済ませて帰るイギリス軍に植民地側のミニットマンがゲリラ的銃撃を浴びせたのである。この事件でどちらが先に発砲したかは明らかではない。しかし、植民地側のニュースはいちはやく、衝突はイギリス側が仕掛けたものとした。イギリス軍の残虐行為とイギリスに反抗した人々の「英雄的な戦い」がことこまかに語り伝えられ、植民地民衆の心を奮い立たせたのである。ニュースは植民地側の連絡網をつうじて流布された。すでに、植民地側のプロパガンダの環を広げるため、各地に「通信連絡委員会」が設立されていた。
最初の段階では、独立を支持する愛国派(パトリオット)は自営農民・中小商工業者・一部の大農場主ら植民地人口の3分の1程度にすぎず、なお本国に忠誠であろうとする忠誠派(ロイヤリスト)と、和解に期待を抱き迷いつつある中立派を合わせると、独立に踏み切れないものが多数を占めていた。しかし、戦争が進むにつれ、和解の希望はうすれ、独立への意識が強まってきた。1776年1月にトマス・ペイン(1737〜1809)が出版したパンフレット『コモン・センス(常識)』は、君主制の弊害を指摘し、共和政の採用と独立を単純明快な論旨で主張し、3ヶ月で12万部売れ、世論を和解から独立へかたむけた。
大陸会議は1776年7月4日、独立宣言を採択した。トマス=ジェファソン(1743〜1826)が起草し、他の代表が検討を加えたものである。独立宣言では、合衆国が独立する理論的根拠を前段で述べている。生命・財産および幸福追求の権利という自然権・自然法、社会契約論にたつ政府の役割、人民主権、革命権などは、ジョン・ロック( 「科学革命」 )の政治理論の影響を強くうけている。中段でジョージ3世(イギリス王)の悪政を20数件の事例を列挙して述べ、結論として植民地が、アメリカ合衆国として独立することを宣言している。
独立宣言は、和解か独立かでまよっていた植民地人の選択を迫ることとなり、対外的には植民地を新国家とすることによって、本国との抗争を内乱から国際戦争に転じさせることになった。
イギリスでコルセット職人の子として生まれ、職業を転々としたのち、フランクリンのすすめでアメリカに渡った。
アメリカ独立宣言(抜粋)
我々は次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等につくられ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。そのなかには生命、自由、そして幸福の追求が含まれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意にもとづかねばならない。もしどんな形の政府であってもこれらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革しあるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理にもとづき、そのような形で権力を形作る新しい政府を設けることが人民の権利であること。異常である・・・・・・現在のイギリス王の歴史はたび重なる侮辱と権利侵害の歴史である。すべては、わが諸州の上に絶対専制政治をうちたてることを直接目的としているのである。以上のことを立証するために、公正な世界にむかってあえて事実を提出する。