西方イスラーム世界
11世紀半ばころ、西サハラに住むベルベル人の修道士(ムラービト)たちは、熱心なイスラーム宗教運動をおこし、北アフリカにムラービト朝(1056〜1147)を建国した。つづいてモロッコにおこったムワッヒド朝(1130〜1269)は、ムラービト朝を倒すとマラケシュに首都を定め、イベリア半島南部を支配下におさめた。貿易路を支配し、著しい手工業の発達と哲学・医学・文学などイスラーム文化が大いに栄えた。
西方イスラーム世界
11世紀半ばころ、西サハラに住むベルベル人の修道士(ムラービト murabit)たちは、熱心なイスラーム宗教運動をおこし、北アフリカにムラービト朝(1056〜1147)を建国した。
彼らはジハード(聖戦)を唱えて南下し、1076年ガーナ王国を滅ぼすと、スーダンのイスラーム化を積極的に推し進めた。首都マラケシュを建設したムラービト朝は、イベリア半島にも進出し、そこから先進的なイスラームの建築技術や学問を北アフリカにもたらした。
王朝はアッバース朝カリフの権威を承認し、スンナ派信仰によって国内の統一をはかったが、建国当初の宗教的情熱が冷めるに連れて国力は衰退した。
彼らはジハード(聖戦)を唱えて南下し、1076年ガーナ王国を滅ぼすと、スーダンのイスラーム化を積極的に推し進めた。首都マラケシュを建設したムラービト朝は、イベリア半島にも進出し、そこから先進的なイスラームの建築技術や学問を北アフリカにもたらした。
王朝はアッバース朝カリフの権威を承認し、スンナ派信仰によって国内の統一をはかったが、建国当初の宗教的情熱が冷めるに連れて国力は衰退した。
つづいてモロッコにおこったムワッヒド朝(1130〜1269)は、ムラービト朝を倒すとマラケシュに首都を定め、さらにイベリア半島南部を支配下におさめた。経済の基礎は貿易路の支配にあったが、皮革をはじめとする手工業の発達も著しく、哲学・医学・文学などイスラーム文化が大いに栄えた。
イブン・ルシュドが、哲学者・医学者として活躍したのもこの王朝の時代である。しかし、このころイベリア半島では、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が高まり、ムワッヒド朝はナバス・デ・トロサの戦いで手痛い敗北を喫した。
ムワッヒド朝の敗退後、イベリア半島では、最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230〜1492)が、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていた。しかし1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まった。そして1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げた。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げた。
彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
アラベスク模様:植物の茎や葉、あるいはアラビア文字などを図案化し、幾何学的に配置した装飾文様。