イギリスのヴィクトリア時代
ヴィクトリア女王の在位は64年の長期にわたったが、女王在位の期間はイギリスの政治・経済・社会の面で繁栄期であった。19世紀はイギリスが経済的に繁栄し、圧倒的な海軍力を保持していたことから「パクス=ブリタニカ Pax Britannica」と呼ぶこともある。
イギリスのヴィクトリア時代
ヴィクトリア女王 Victoria (位1837〜1901)の在位は64年の長期にわたったが、女王在位の期間はイギリスの政治・経済・社会の面で繁栄期であった。19世紀はイギリスが経済的に繁栄し、圧倒的な海軍力を保持していたことから「パクス=ブリタニカ Pax Britannica」と呼ぶこともある。
政治の分野では保守党と自由党による二大政党政治が展開された。1867年、都市労働者にも選挙権を拡大する第2回選挙法改正が議会を通過し、84年の第3回選挙法改正では農業労働者や鉱山労働者にも選挙権が拡大して事実上男性普通選挙制が実現し、議会主義制度はいっそう発展した。この時期活躍したのが自由党のグラッドストン Gladstone (1809〜98 任1868〜74, 80〜85, 86, 92〜94))と、保守党のディズレーリ Distaeli (1804〜81 任1868, 74〜80)であった。グラッドストンは小英国主義をとって植民地の拡大に反対し、アイルランド問題では小作人を保護する土地法案を成立させ*1、さらにアイルランド人の自治を認めるアイルランド自治法案を議会に提出したが*2、保守党の激しい反対にあって流産した。また彼は国内の自由主義的改革を推進し、1870年教育法を制定して公立学校の増設を進めて国民教育の増進をはかり、71年労働組合の法的地位を認めた。さらに秘密投票制の実施など国内の改革に努めた。
*2 アイルランド自治法案:1886年と93年の2回、グラッドストン内閣が提出した。その後1912年にアスキス Asquith (1852〜1928, 任1908〜15, 1915〜16)内閣が第3次自治法案を提出したが、アルスターのプロテスタントの反対にあった。
植民地では白人系の植民地を中心に自治を獲得する動きが活発となった。1867年カナダが連邦として自治政府をつくり、1901年オーストラリア、07年ニュージーランド、10年南アフリカ連邦が自治領となった。
しかし、アイルランドだけはイギリスの懸案事項であった。1829年のカトリック教徒解放法によって宗教的差別がなくなったあとは土地問題がおこり、40年代に青年アイルランド党による合同撤回運動が展開された。1845年からのアイルランドにおけるジャガイモの不作は大量の餓死者を生み(ジャガイモ飢饉)、アメリカやイギリス本国に移民する者が大量にでた。
50年代には小作人同盟の小作人救済運動(3F運動)がおこり、さらにフェニアン党 Fenians による土地国有化運動が展開された。19世紀末になるとグラッドストンと提携する勢力もあったが、自治法案の流産さらにはアルスター(北アイルランド)の分離運動がさかんになると、アイルランドの統一を主張するシン=フェイン党 Sinn Fein (「われわれ自身」という意味)が20世紀に入って勢力を拡大し、問題は依然未解決であった。
この時代の象徴は1851年ロンドンで開催された世界最初の万国博覧会(第1回万国博覧会)であった。水晶宮に代表されるイギリスの技術は他の諸国を圧倒し、イギリスの経済的優位をみせつけた。万博をひと目みようとイギリス国内からも大勢の労働者が集まった。それを可能にしたのが鉄道の発達であり、労働者は貯金の積立をおこない、トマス=クックの旅行者などの団体旅行に参加してロンドンにやってきた。「飢餓の40年代」をすぎると労働者の生活水準はしだいに向上し、従来の闘鶏や熊いじめなどのブラッドスポーツ blood sprts にかわって合唱・ブラスバンドなどいわゆる健全な娯楽が普及し、ブルジョワを模倣して海水浴や海岸地帯のリゾート施設に人々が集まるようになった。