ピューリタン(清教徒)革命
エリザベス1世が未婚のまま没しテューダー朝が絶え、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世(イングランド王)として迎えられ、ステュアート朝を開いた。支持基盤の弱い外国人の国王は王権神授説を唱え、専制政治をおこなった。ピューリタニズムを信仰するジェントルマン、ヨーマンらと国教を強制する国王の対立が激化した。
ピューリタン(清教徒)革命
イギリスでエリザベス1世(イングランド女王)が未婚のまま没すると、テューダー朝の血統が絶えた。このため1603年、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世(イングランド王)(位1603〜1625)として迎えられ、ここにステュアート朝が開かれた。これ以後、1707年に正式に合同するまで、両国は「同君連合」のかたちをとる。彼は長年のスペインとの対立を解消し、平和主義者とみられたが、外国人の国王でもあり、その支持基盤はきわめてもろかった。王権神授説を唱え、専制政治に走ったのも、むしろその弱さの表れとみられている。
エリザベス時代以来、国内はジェントルマン階層とともに、ヨーマンと呼ばれた比較的豊かな農民や商工業者が力をもつようになり、彼らを中心にピューリタニズムの信仰が広まった。彼らが、とくに議会に結集する傾向を示すと、ジェームズ1世はいっそう強圧的な政治で対抗したため、両者の対立が激化した。
ピューリタニズム
本来は、宗教改革を徹底することによって、国教会の浄化をめざした運動であったが、カルヴァン派の影響をうけ、政治的・社会的な運動として展開した。一般には聖書主義(福音主義)の立場をとり、世俗の職業を重視して、合理主義の立場から禁欲や勤勉を説いた。長老派、組合派、バプテスト、クェーカーなど多様なセクト(宗派)に分かれ、イギリスではピューリタン革命の原動力となったほか、多くのセクトがアメリカで発展した。
次のチャールズ1世(イングランド王)(位1625〜1649)は、父王ジェームズ以上に専制を強化した。このため1628年、議会は「権利の請願」を提出して、議会の同意していない課税や法にもとづかない逮捕や投獄をやめることなどを国王に約束させた。これに対して国王は、翌年、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。この間、カンタベリー大主教ウィリアム・ロード(1573〜1645)やトマス・ウェントワース(初代ストラフォード伯爵)(1593〜1641)を重用して、国教会と国家の結びつきを緊密にした(「ロード=ストラフォード体制」という)ことによって、国民の決定的な不評をかった。しかし、1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱がおこり、チャールズ1世としても戦費調達のため議会を召集せざるをえなくなった。
しかし、このために開かれた議会は課税を拒否したうえ、国王を激しく避難したため、国王は3週間でこれを解散した(短期議会)。同年、新たな議会(1653年まで10年以上続いたため、長期議会という)が開かれたが、対立はますます深刻化し、1642年、5名の議員を逮捕しようとして失敗した国王は北部のヨークに逃れ、イギリスは内乱状態に突入した。
内乱では、初めは王党派が優勢であったが、議会派の中心となった独立派のオリバー・クロムウェル(1599〜1658)が鉄騎兵や近代の国民軍に近い性格の「新型軍(鉄騎隊)」を編制して、1644年、ネイズビーの戦いで、王党派は決定的に打ち破られた。ついに1649年には国王は処刑され、クロムウェルら議会派が共和制を打ち立てた。この一連の動きをピューリタン革命という。
いったん勝利した議会派のなかでは、政権の中枢に座った独立派と、長老派や主として小ブルジョワを代表したといわれる平等派(水平派、レヴェラーズ)との間に、つぎつぎと対立が生じた。
サムエル・クーパー作の未完成の肖像画。力強く、人間味あふれる印象を与える。彼はピューリタン的生活を国民に強制し、大衆の楽しみであった演劇などの娯楽を禁止した。
クロムウェルの率いる独立派は、まずより急進的な平等派と組んで、スコットランドやロンドンの大商人に支持者の多かった穏健な長老派を追放し、ついで1649年には、リルバーン(1614〜1657)をリーダーとした平等派をも抑えて、独裁権を確立した。
権力を確立したクロムウェルは、貴族院を廃止して庶民院のみとし、アイルランドを征服したほか、1651年には航海法(航海条例)を施行してオランダの中継貿易を排除しようとした。このためにおこった第1次イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争 1652〜1654)に勝利すると、1653年終身の護国卿となり、軍事独裁をおこなった。劇場を封鎖し、ほとんどの娯楽を禁じるなど、厳格なピューリタニズムにもとづくクロムウェルの独裁政治は、民衆の反感をかい、王政復古につながった。
航海法
イギリス重商主義政策の根幹をなした政策で、直接的には、オランダに対抗してイギリス海運業の利益を守ることを目的としたが、結果として、貿易業や製造業をも保護することになった。
1651年法では、イギリスと植民地の貿易を基本的にイギリス船に限定することを規定し、1660年法は、植民地が砂糖・タバコ・藍など植民地の特産物をイギリス以外の国に直接輸出することを禁止した。さらに、1663年法では、植民地の輸入をもイギリス船に限定した。他方では、これらの政策は植民地人の不満のもとにもなった。
アイルランド
アイルランドには、ウェールズ・スコットランドと同じようにケルト人が住んでいたが、彼らはカトリックに改宗しており、宗教改革以降しばしばイギリスの侵略をうけた。
エリザベス時代にもかなりの規模の植民がおこなわれ、クロムウェルと名誉革命後の征服で、ほぼ全土がイギリスの植民地となった。このため、ケルト人を中心とするカトリック教徒の抵抗や、独立運動が長期的に続く。のちには、スコットランドからのプロテスタント入植者をも交えて、複雑な対立抗争が近年にまでひきつがれた。