フランク人を統一したクロヴィス1世が領土をほぼガリア全域に広げ、アタナシウス派キリスト教への改宗(496年)により、ローマ系住民やカトリック教会との関係の円滑化に成功し、イタリアの東ゴート族と並ぶ強国になった。クロヴィスの死後、王権はおとろえ、かわって各分国の宮宰が実権を掌握することになった。
フランク王国の発展とイスラームの侵入
その要因として見逃せないのが、クロヴィス1世によるアタナシウス派キリスト教への改宗(496年)である。すでに他のゲルマン諸国はいち早くキリスト教を受け入れていたが、それはニケーア公会議(325年)で異端とされたアリウス派のキリスト教であった。したがってローマ系住民やカトリック教会との関係の円滑化という点で、クロヴィスのアタナシウス派への改宗は賢明な政策であった。
それとともにメロヴィング朝の王権はおとろえ、かわって各分国の宮宰が実権を掌握することになった。
中でもアウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン2世(中ピピン)は、7世紀末に対立するネウストリアの宮宰を打倒し、王国の再統一をはかった。
ピピン2世(中ピピン)が没し、その子カール・マルテルが宮宰になった8世紀初頭にはイスラーム軍がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし(711年)、ピレネー山脈を超えてフランク領内に侵入してきた。カール・マルテルは騎士団を編成してこれを迎え撃ち、トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利した(732年)。
カロリング家の権威は絶大なものとなり、マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、751年ザカリアス(ローマ教皇)の同意のもとにメロヴィング家の王国キルデリク3世を廃し、みずから王位についてカロリング朝を開いた。
トゥール・ポワティエ間の戦い
イスラーム軍の攻撃に耐えかねたアキテーヌ公ウードは、やむをえず北ガリアの支配者であった宿敵カール・マルテルに救援を要請した。マルテル(鉄槌の意)はイスラーム騎兵に対抗するため、重装騎兵を中核とする軍を編成して南下した。イスラーム軍はポワティエを攻め、つづいてキリスト教の聖地のひとつであるトゥールをめざして北上、732年10月ついに両軍は激突した。
有名な戦闘のわりには史料がとぼしく、詳細は明らかではないが、この戦闘でイスラーム側は将軍のアブド・アッラフマーンを失い、敗退した。そのため、トゥールの聖マルタン修道院はイスラーム軍の略奪から逃れることができた。
また、これ以後イスラーム勢力のピレネー以北への進出は食い止められ、フランク社会におけるカール・マルテルおよびカロリング家の地位はいっそう強化された。ただし、その後イベリア半島と地中海一帯が長らくイスラームの支配下におかれたことを考えると、この戦闘の意義を過大に評価することはできない。