ロシア
第1次ロシア革命の際にペテルブルクで労働者代表の自治組織ソヴィエト(評議会)が初めてつくられた。ニコライ2世は十月宣言を発し、国会(ドゥーマ )を開設。ソヴィエトはモスクワで蜂起したが鎮圧され、革命運動には厳しく弾圧された。
ロシア
帝国主義時代のヨーロッパ諸国 ロシア
ロシア国内 | ロシア国外 | ||
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1870代 | ナロードニキ運動激化 | 中央アジアへの進出 | |
1878 | ヴェーラ=ザスーリチのテロ → テロリズム増加 | 1868 | ブハラ=ハン国保護国化 |
1881 | アレクサンドル2世暗殺 | 1873 | ヒヴァ=ハン国保護国化 |
アレクサンドル3世即位(〜94) | 1876 | コーカンド=ハン国併合 | |
革命運動弾圧激化 | 1873 | 三帝同盟締結(独・墺・露) | |
ユダヤ人に対する迫害激化 | 1877 | ロシア=トルコ戦争(〜78) | |
1891 | シベリア鉄道着工(フランスの資本導入)→ ロシアの産業革命本格化 | 1878 | サン=ステファノ講和条約 → バルカン半島に勢力拡大 |
1894 | ニコライ2世即位(〜1917) | 1878 | ベルリン会議 → ベルリン条約締結 ロシアのバルカン半島への南下阻止 |
1898 | ロシア社会民主労働党結成 | 1881 | イリ条約締結 |
1901 | 社会革命党結成 | 1997 | 独露再保障条約締結(〜90)→ フランスの孤立化 |
1903 | 社会民主労働党分裂 | 1891 | シベリア鉄道着工 |
ボリシェヴィキ(レーニン) | 1894 | 露仏同盟完成 | |
メンシェヴィキ(プレハーノフ) | 1895 | 三国干渉 | |
1905 | 血の日曜日事件(第1次ロシア革命) | 1900 | 義和団事件で満州占領 |
戦艦ポチョムキンの反乱 | 1904 | 日露戦争(〜05) | |
十月宣言 | |||
1906 | 国会(ドゥーマ)開設 | ||
ストルイピンの改革 | 1907 | 英露協商締結 |
1890年代のロシアは蔵相ヴィッテ Vitte (1849〜1915)の政策を採用し、重工業を中心に政府の強力な保護・監督のもとで急速な工業化が進められた。工業製品のための広い国内市場のえられないロシアでは、フランスなどから国外資本を導入し、シベリア鉄道建設のような国家事業をてこに国内開発が進められ、南ロシアには鉄鋼業も発達した。露仏同盟の締結はフランスからの投資を推進することになった。農奴解放後の土地不足と納税負担に悩む農民は出稼ぎ労働者となって都市に流入し、彼らの低賃金労働が工業の発展を支えた。
20世紀初頭ロシア経済を不況が襲うなか、農奴解放令が実施されてからほぼ40年ぶりに激しい農民運動が現れた。南ロシアの工業都市では労働者がストライキをおこした。知識人や学生の間でも専制体制への批判は強まり、政治党派の組織化が始まった。社会変革の思想としてマルクス主義を標榜するプレハーノフ Plekhanov (1856〜1918)らの動きは1880年代に現れたが、ロシア社会民主労働党の実質的な結党は1903年にロンドンとブリュッセルでおこなわれた。この大会で党の組織論をめぐってボリシェヴィキ Bolsheviki (レーニンを指導者とする)とメンシェヴィキ Mensheviki (マルトフ Martov 1873〜1923 を指導者とし、やがてプレハーノフも合流した)に分裂した ❶ 。一方、ナロードニキの運動をうけつぎ農民社会主義を追求し、テロリズムを容認する社会革命党(社会主義者革命家党、またはエスエル)は1901年に結成された。
日露戦争で敗戦が相つぐなか、1905年1月22日(ロシア暦9日)、司祭ガポン Gapon (1870〜1906)に率いられたペテルブルクの労働者やその家族10万人が皇帝に労働時間の短縮や戦争の中止を請願しようとした。しかし、この平和な行進に軍隊が発砲し多数の死傷者をだし、ロシア皇帝への崇拝の念はゆらいだ。この血の日曜日事件に抗議して全国各地で労働者がストライキを決行し、被抑圧民族や農民も蜂起した(第1次ロシア革命)。
奉天会戦での敗北(3月)、バルト海艦隊の壊滅(5月)によってロシア指導部が動揺するなか、黒海艦隊のポチョムキン号で水兵の反乱(戦艦ポチョムキンの反乱)もおきた。10月に革命は最高潮に達し、労働者・鉄道員・学生・商店主・市民・役人を含む大規模なゼネストが全国に広まり、交通・通信はストップした。この革命の際にペテルブルクで労働者代表の自治組織ソヴィエト Soviet (評議会)が初めてつくられ、ロシア社会民主労働党や社会革命党が結集した。皇帝ニコライ2世(位1894〜1917)はヴィッテら自由主義者たちの進言にもとづいて十月宣言を発し、立法権をもつ国会(ドゥーマ Duma )の開設と市民的自由を認めた。これをうけて自由主義者たちは議会活動にむけて立憲民主党(カデット)などの政党を結成したのに対して、ソヴィエトはモスクワで蜂起したが鎮圧され、革命運動には厳しい弾圧が加えられた。
1906年、欽定憲法が発布され、ストルイピン Stolypin (1862〜1911)が首相となった。ストルイピンは革命運動に厳しく対処する一方、ミール mir (共同体)を解体して土地私有化を促進して自営農を創設し、これを帝政の支持基盤として国家を安定させようとした。しかし、この農業改革は農民の根強い反発にあって進捗せず、ミールはスターリンによる農業集団化がおこなわれるまで農民の生活基盤でありつづけた。外交的にはしばらく親英・親独策がとられたが、ドイツがオスマン帝国への影響力を強めると、ロシアは大セルビア主義を支援するようになり、独露関係はしだいに緊張していった。