内陸アジアの新動向
モンゴル系またはトルコ系の鮮卑が有力となり、五胡のひとつとして華北に建国するにいたった。慕容部のたてた前燕・後燕、拓跋部のたてた北魏などがその例である。鮮卑が中国北部に移動したため、かわって5世紀のモンゴル高原では、モンゴル系の柔然が有力となった。同じころ、中央アジアではトルコ系またはイラン系の遊牧民エフタルが強大となった。エフタルは、西北インドにも侵入してグプタ朝を圧迫した。
6世紀になると、アルタイ山脈を本拠地とするトルコ系の突厥が目覚ましい発展をとげた。
内陸アジアの新動向
匈奴が衰えたあとのモンゴル高原では、3世紀の半ば以降、モンゴル系またはトルコ系の鮮卑が有力となり、五胡のひとつとして華北に建国するにいたった。慕容部のたてた前燕・後燕、拓跋部のたてた北魏(中国北部を統一する)などがその例である。こうして鮮卑が中国北部に移動したため、かわって5世紀のモンゴル高原では、モンゴル系の柔然が有力となった。同じころ、中央アジアではトルコ系またはイラン系の遊牧民エフタルが強大となった。エフタルは、西北インドにも侵入してグプタ朝を圧迫し、「フーナ(白いフン)」と呼ばれて恐れられた。
6世紀になると、アルタイ山脈を本拠地とするトルコ系の突厥(トルコ系騎馬遊牧民の国家。)が目覚ましい発展をとげた。
突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった)や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗のとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立した。以後、突厥およびこれにかわったウイグル(回鶻)と、内陸アジアの草原地帯はしばらくトルコ民族の制圧するところとなり、中国の強敵として隋、唐帝国(唐王朝)と交戦を重ねることになった。
583年、突厥は内紛によって、モンゴル高原を本拠地とする東突厥と、中央アジアを本拠地とする西突厥に分裂した。
隋との力関係で劣勢となった東突厥は隋(王朝)に服属したが、隋が滅びると勢力を回復し、連年のように唐に入寇した。しかし、やがて内紛と唐(王朝)攻撃により、630年に東突厥国家(第一可汗国)は崩壊する。以後、東突厥は唐(王朝)羈縻支配下に入ったが、682年にいたって唐(王朝)支配下から離脱し、ふたたびモンゴル高原に強大な国家を樹立した。これを第二可汗国と呼ぶ。
一方、西突厥は、652年、唐(王朝)攻撃をうけて滅亡した。なお、突厥は突厥文字をつくったが、これは内陸アジアの遊牧民が使用した最初の文字である(アラム文字・ソグド文字両起源説がある)。
第二可汗国時代にオルコン河畔に建立された碑文(突厥碑文)は、突厥の歴史や文化、古代トルコ語に関する貴重な資料であり、19世紀末、デンマークのトムセンは、同碑文をもとに突厥文字を解読した。
8世紀に入ると、突厥に服属していたトルコ系の鉄勒(チュルク)部族のひとつ、ウイグルが有力となり、744年、東突厥(第二可汗国)を滅ぼした。ウイグルは、モンゴル高原のオルド・バリクを都城として大帝国を樹立し、唐(王朝)との関係でも、安史の乱に際して唐の要請に応じて援軍を送るなど、大いに優位に立ったが、9世紀の半ばになると衰退に向かい、840年、南シベリアのトルコ系遊牧民キルギスの攻撃を受けて、帝国は崩壊した。
ウイグルでは、ウイグル文字が使用され、マニ教が厚く信仰された。