初期の十字軍
第1回十字軍ではセルジューク朝軍と戦い、アンティオキア公国、エデッサ伯国の十字軍国家を建国、さらに南下してイェルサレムを占領、ユダヤ教徒やイスラーム教徒の大量虐殺を行い、イェルサレム王国(1099〜1291)、トリポリ伯国も建国した。聖地に常駐し、巡礼の保護と貧者、病人、死者の世話をする騎士修道会として、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団が設立された。
初期の十字軍
第1回十字軍
当時、ドイツ、フランス、イギリス3国の国王はいずれも破門中の身であったため( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)、フランス、イタリアなどの諸侯、騎士を中心に4軍団が編成され、1096年8月第1回十字軍が出発した。兵士たちに守られた巡礼者も含めると、その数は10万に達したという。いったんコンスタンティノープルに集結したのち、小アジアを横断してセルジューク朝軍と戦い、アンティオキア公国、エデッサ伯国を建国した。そしてシリア沿岸を南下、1099年7月、ファーティマ朝総督治下の聖地イェルサレムを占領、ユダヤ教徒やイスラーム教徒の大量虐殺を行い、イェルサレム王国(1099〜1291)を建国した。また1102年にはトリポリ伯国も成立した。
だが、シリア、パレスチナ一帯に領土を獲得した一部の諸侯、騎士や、そこでの土地配分にあずかった少数の市民、農民を除き、遠征に加わった大多数のものは帰途につき、十字軍国家は生産者人口と軍事力の不足に悩まされる事になった。また、聖地に常駐し、巡礼の保護と貧者、病人、死者の世話をする騎士修道会(宗教騎士団)として、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団が設立された。
ヨハネ騎士団が1142年シリアに建設した城で、1271年マルムーク朝のスルタン・バイバルスによって占領された。塔をともなう二重の城壁によって強化され、広い堀で区切られている。
第2回十字軍
日ならずして、イスラーム側の反撃が開始された。まず、1146年エデッサ伯領が、つづいてアンティオキア候領の東半分が奪還された。ルイ7世(フランス王)とホーエンシュタウフェン朝初代コンラート3世(神聖ローマ皇帝)は、第2回十字軍(1147〜1149)を組織して内陸シリアの拠点ダマスクスを攻撃したが、あえなく失敗した。
初期の十字軍の成功は、イスラーム側の内紛に助けられたものであったが、このころイスラーム世界にサラディン(サラーフッディーン 1138〜1193)が登場すると、形勢は大きく逆転することになった。サラディンはアイユーブ朝(1169〜1250)を立てると、ファーティマ朝を滅ぼしてエジプトにスンナ派信仰を回復し、シリアをもあわせて反十字軍の統一勢力を結集した。その結果、エルサルム王国はサラディンにより1世紀たらずで奪回された。(1187)
第3回十字軍
これに対し、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)、フィリップ2世(フランス王)、リチャード1世(イングランド王)の三大国の君主からなる第3回十字軍(1189〜1192)が結成された。
だが、大軍を率いたフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は途中小アジアで不慮の事故死を遂げ、フィリップ2世(フランス王)はリチャード1世(イングランド王)と対立し、アッコンを奪還後帰国した。
リチャード1世(イングランド王)だけがその後もサラディンとわたりあったが、結局イェルサレムを奪回することはできなかった。なお、この第3回十字軍に際して、ドイツ騎士団が成立している。
宗教騎士団(騎士修道会)
十字軍に際し、騎士以上の階層から募集され、教皇の許可を得て設立された修道会。
騎士と修道士の双方の性格を兼ねそなえ、主としてキリスト教徒巡礼者の保護、傷病者の看護、聖地の警備などにあたった。教皇に直属したが、国王や諸侯からも保護され、各種の特権や領地の寄進を得て大きな勢力となった。最盛期にはその数は100を越し、数万人の会員を数えたといわれる。なかでもパレスチナに建設された聖ヨハネ騎士団(1113)、テンプル騎士団(1119)、ドイツ騎士団(1198)は三大宗教騎士団として有名である。
聖地陥落後、聖ヨハネ騎士団はキプロス島からロードス島に、テンプル騎士団はキプロス島からフランスにそれぞれ本拠を移し、商業・金融活動などで活躍したがしだいに本来の目的を失った。またドイツ騎士団は聖地ではあまり活動せず、むしろキリスト教の伝道と農業開発を目的にプロイセンに入植(1230〜1283)、ドイツ本土からの多数の農民や市民の移住を受け入れて発展した。しかし、15世紀初頭ポーランド・リトアニア連合軍に敗れ衰退した。