学問と大学
Triumph of St. Thomas Aquinas, “Doctor Angelicus”, with saints and angels, Andrea di Bonaiuto, 1366. Basilica of Santa Maria Novella, fresco (画像出典:詳説世界史図録)

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学問と大学

もっとも古い大学は北イタリアのボローニャ大学で、11世紀後半に法学生が自治団体としての学生組合(universitas)を結成したことに始まる。12世紀にパリ大学が成立し、パリで私塾を開いていた教師の組合(collegium)に端を発した。大学を指す英語の university や college は、これらの組合に由来する。

学問と大学

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

神学

中世の学問を代表するのが神学である。「哲学は神学のはしため」ということわざが象徴するように、中世には古代に学問の中核を占めた哲学よりも、キリスト教の教理や信仰を研究する神学の方が上位を占めた。古代のラテン語神学は、5世紀初めの教父アウグスティヌスにより大成されたが、中世の神学はアウグスティヌスの思想を基盤に、スコラ学として発展した。スコラとは学校の意味で、フランク王国カール大帝がアーヘンの宮廷や教会・修道院などに付属の学校を建て、アルクィン(735〜804)ら諸国の学者を集めて学問を奨励したことに始まる。スコラ学は11世紀のカンタベリ大司教アンセルムス(1033〜1109)を経て、13世紀にドミニコ派のトマス・アクィナス(1225頃〜1274)により大成された。トマスは、アリストテレス哲学を踏まえ、神学を中心にあらゆる学問の体系化を目指し、『神学大全』を著した。

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中世のスコラ学において最大の課題とされたのが、神や普遍の実在をめぐる実在論と唯名論(名目論)との普遍論争であった。
アンセルムスに代表された実在論(普遍の実在を認める立場)は、「理解せんがために我れ信ず」として理性の上に信仰を置いたが、フランスのピエール・アベラールに代表される唯名論(実在するのは個物であり、普遍は名目にすぎないとする立場)は、「信ぜんがために理解す」として信仰よりも理性が先立つことを主張し、教会から異端視された。トマス・アクィナスは穏やかな実在論の立場をとり、普遍は知性の所産であるとともに実在に対応するとして、信仰と理性の統一をはかった。だが、その後、唯名論が有力となり、フランチェスコ派のヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266〜1308)やウィリアム・オブ・オッカム(オッカムのウィリアム)(1290〜1349)により、信仰と理性は調和しないとして両者の区別・分離が主張されるにおよび、スコラ学はしだいに衰退にむかった。

アベラールとエロイーズ

ブルターニュからパリに出て、学者として名声を高めたピエール・アベラール39歳、パリの教会参事会員の姪で才色兼備のエロイーズ17歳、二人は激しく愛し合い、1子をもうけた。だが、エロイーズの後見役であった伯父はこれに怒り、2人の仲を引き裂いたばかりか、アベラールを去勢するという残酷な仕打ちを加えた。その後、2人は別々の修道院で生涯を過ごしたが、2人の間に交わされた往復書簡には人間としての真情が表されている。

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スコトゥスやオッカムのウィリアムにより信仰と理性の分離は、科学的思考としての経験論に基礎を提供することになった。両者に先立って、イギリスのオクスフォード大学で活躍したフランチェスコ派のロバート・グロステスト(1175〜1253)と、弟子のロジャー・ベーコン(1214〜1294)は、ギリシアやアラビアの科学を手がかりに数学的実験科学の方法を考察し、近代科学の発達に多くな影響を与えた。

ベーコンは「すべては経験に依存する」「推理は何事も証明せず」と説いた。
その科学的方法論は14世紀末にパドヴァ大学に伝えられ、コペルニクスやガリレイにも影響を与えた。

大学

中世の学問と教育は、11世紀頃までは司教座教会や修道院の付属学校が中心になっていたが、12〜13世紀以降の都市の勃興を背景に各地に大学ができると、そちらに中心が移った。もっとも古い大学は北イタリアのボローニャ大学で、11世紀後半に法学生が自治団体としての学生組合(universitas)を結成したことに始まる。続いて12世紀にはパリ大学が成立したが、こちらはパリで私塾を開いていた教師の組合(collegium)に端を発した。

大学を指す英語の university や college は、これらの組合に由来する。

つまり、大学とは本来学生や教師たちがそれぞれの生活と権利を守るために、商人や職人のギルドにならって作った団体を意味したのである。このパリ大学を模範に、12世紀後半に作られたのがイギリスのオクスフォード大学であり、どちらも神学研究で有名であった。このほか、南イタリアのサレルノ大学は、アラビア医学の影響下に医学で名高く、そのカリキュラムは他の医学教育にも導入された。

当時は大学といっても一定の建物があるわけではなく、自治が侵されそうになると教師や学生は他の都市に移動した。オクスフォード大学から生まれたケンブリッジ大学やボローニャ大学から生まれたパドヴァ大学はその例である。
また教会思想の統一を目指す教皇は早くから大学を支持し、都市や諸国の君主もその威信と法律知識をもつ役人養成のために、しだいに大学の重要性に着目するようになった。
ナポリ大学・プラハ大学・ウィーン大学などは、いずれも神聖ローマ皇帝ないしはハプスブルク家の君主が創立したものである。こうして、中世末期には全ヨーロッパで約80の大学を数えるまでになった。また、完全な大学は、文法・修辞・論理・算術・天文・幾何・音楽の自由7科の基礎の上に、神学・法学・医学の3専門学部を備えていた。

中世の学生運動

ボローニャ大学の学生は教師に対して次のような要求を行なった。
「学生の許可なしに抗議を休むべからず」「教師は始鈴とともに抗議を始め、終鈴とともに退出するべし「難問を説明せずに退出すべからず」「講義をとばすべからず、全体をカバーすべし」
これらの要求が満たされない場合、学生は講義をボイコットし、謝礼で生活する教師を苦しめた。

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