東西文化の交流と元代の文化
観星台 郭守敬によって建てられた天文観測施設。彼はイスラーム天文学を取り入れて授時暦を作成したが、その際この施設の観測記録が活用された。世界遺産「天地の中央」にある登封の史跡群 Wikipedia

東西文化の交流と元代の文化

元代の文化:科挙の一時廃止により士大夫階級の地位が低下し、中国固有の学問や思想はふるわず元曲などの庶民文化が発達イスラーム文化(天文学・数学・医学)の影響自然科学が発達。

東西文化の交流と元代の文化

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

東西の交流

モンゴル帝国の成立により13〜14世紀のユーラシア大陸の大部分には政治的秩序がもたらされ、経済、文化の両面で東西の交流が盛んになった。このようなモンゴル政権による政治的安定と東西交流の発展を「タタールの平和」(パクス・タタリカ)と呼ぶ。

「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)にちなんで名付けられた。この場合のタタールは、モンゴル人をさす。

当時、西ヨーロッパでは十字軍の遠征で劣勢に立たされ、イスラーム教徒のホラズム朝を倒したモンゴル帝国に関心を持った。しかし、バトゥのヨーロッパ遠征(1236〜1242)は、キリスト教世界に大きな不安と脅威を与えた。直接侵入をうけなかった西ヨーロッパでも、インノケンティウス4世(ローマ教皇)は、モンゴルの再来を防ぎ、彼らをキリスト教に改宗する目的でフランシスコ修道会のプラノ・カルピニを使節としてモンゴルに派遣した。

第3代ハーンのグユクとカルピニが謁見の際に教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なった。この時に教皇宛に送られたグユクの勅書が現存(バチカン図書館蔵)しており、グユクは教皇に帰順を求めている。帰国後カルピニは一時、教皇の怒りを買った。

次いでルイ9世(フランス王)も、十字軍への協力要請とキリスト教の布教の目的で、フランシスコ修道会のウィリアム・ルブルックをカラコルムのモンケのもとに派遣した。

ルブルックはその時に見聞にもとづき、モンゴル、中央アジア各地の地理、風俗、宗教、言語などを伝える貴重な旅行記『東方諸国旅行記』を書き残した。

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十字軍を契機に目覚ましい経済発展をとげたイタリア商人は、東方の産物を求めてシリア、パレスチナからイランに進み、「タタールの平和」で保証された中央アジアの東西貿易に接触した。イタリア商人としてはじめてこの商業路を開拓したのがヴェネツィアのニッコロー・ポーロとマッフェーオ・ポーロ兄弟で、ニッコローの子のマルコ・ポーロは、父・叔父とともに中央アジアを経由して元の大都を訪れ、フビライに仕えた。帰国後、マルコ・ポーロが口述した『世界の記述(東方見聞録)』は、中央アジア、中国に関する詳細な記録であり、ヨーロッパ人の東洋への関心を高めた。

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また、『三大陸周遊記』を著したモロッコ出身のイスラーム教徒旅行家イブン・バットゥータも、インドから東南アジアを経由して元朝末期の中国を訪れている。

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宗教・文化

モンゴル帝国は、中央アジアを征服した当初はイスラームを圧迫したが、遊牧民である彼らが、オアシス地帯に隣接して居住するようになると、しだいにイスラーム化した。
まず、13世紀半ばには、チャガタイ・ハン国がイスラームを保護した。また、南ロシアを征服したキプチャク・ハン国も、まもなくイスラームに改宗したが、イルハン国がネストリウス派キリスト教を保護したため、両国は不和であった。しかし、イルハン国も13世紀末にガザン・ハンが登場するとイスラームに改宗し、近隣のイスラーム諸王朝との関係を改善するにいたった。

元朝にやってきた式目人の多くがイスラーム教徒であったことから、中国にもイスラームが伝わり、清真教と呼ばれて大都や泉州、広東など各地にモスクがつくられた。同時に、アラビアから天文学、数学、医学などの自然科学が伝わり、フビライに仕えた郭守敬かくしゅけいは、精密な天文観測の上、授時暦じゅじれきをつくった(1280)。精度の高いこの暦は、明にそのまま採用されるとともに、日本の江戸時代の渋川春海による貞享暦じょうきょうれきの基礎となった。また、中国絵画の技法は、イルハン国に伝わり、書物の挿し絵に描かれるイランの伝統的な細密画(ミニアチュール)に影響を与えた。
東西文化の交流と元代の文化
観星台 郭守敬によって建てられた天文観測施設。彼はイスラーム天文学を取り入れて授時暦を作成したが、その際この施設の観測記録が活用された。Wikipedia

フレグの西征でイスマーイール派を破り、アッバース朝を倒すと、それまでイスラーム勢力の圧迫下にあった西アジアの諸派キリスト教徒は、モンゴル人を歓迎した。なかでもイルハン国の定住人口の重要な部分を占めるシリア人にはネストリウス派キリスト教徒が多く、初期のイルハン国は、彼らの政治力や経済力を必要とし、これを保護した。
また、マムルーク朝と敵対したことから、西ヨーロッパのキリスト教世界とも接近し、イギリス王、フランス王やローマ教皇庁と使節を交換した。
とくに十字軍最後の拠点が陥落すると、ローマ教皇はイルハン国からの使節でネストリウス派の司祭でもあるラッバーン・バール・サウマから元についての知識をえて、13世紀末フランシスコ修道会のジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノを元に派遣し、大都の大司教に任じて布教活動に当たらせた。こうして中国で初めてカトリックが布教された。モンテコルヴィーノが大都で没した後も後任や使節が派遣された。元朝が滅亡するまでローマ教皇庁との通行関係は続いた。

ネストリウス派の影響

チンギス=ハンがモンゴル高原を統一する以前から、モンゴル部の近隣のナイマン、ケレイト、オングトの各部族は、高い文明をもち、その支配階層はネストリウス派キリスト教を信奉していた。これらの部族はモンゴル帝国に吸収されていったが、ネストリウス派キリスト教徒が、帝国の要職にあったことをルブルックもローマ教皇に報告している。
なかでもケレイトの族長の娘ソルコクタニも熱心なネストリウス派キリスト教徒で、のちにチンギス=ハンの末子トルイの妻となり、モンケ、フビライ、フレグを生んだ。ネストリウス派的教養を持った良妻賢母であったと言われている。イルハン国を建国したフレグが、ネストリウス派キリスト教を保護した事実も、このことと無関係ではない。

元朝は、各民族の宗教に対しては寛容と保護を基本とした。イスラーム、キリスト教、仏教(チベット仏教、禅宗など)、道教(全真教など)の宗教団体には、元朝に反抗しない限りに於いて、免税などの特権が付与された。

チンギス=ハンはウイグル文字を採用してモンゴル語の表記に使用させた(のちに改良されて現在のモンゴル文字になる)。その後、モンゴルの支配下に、多種多様な言語、民族、宗教が含まれるようになると、フビライは帝国内のさまざまな言語に対応できる文字の作成をチベット仏教の僧侶パスパに命じた。こうして、チベット文字を原型として考案されたパスパ文字は「国字」とされて、皇帝(ハン)の勅書や貨幣、牌符など公的なものに使用された。そのため元滅亡後はほとんど使われなくなった。

元では科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫階級のなかには官界への道を断たれ、郷里で私塾や書院を開いて経学を講じるものや、詩社を結成して詩作に興じるものが多かった。なかでも趙孟頫ちょうもうふに始まる元朝の文人画家は、士大夫による新しい画風を生み出し、元末の江南には、元末の四大家といわれた黄公望こうこうぼう倪瓚げいさんごちん王蒙おうもうらのすぐれた文人画家が現れた。それまでの文人画の様式はさまざまであったがこれらの元末の四大家によって山水画の描法が様式化され、南宋画の様式が確立された。

また、士大夫階級の地位低下により、中国固有の学問や思想は振るわなかったが、宋代に引き続いて庶民文化が発達し、口語体で書かれた戯曲や小説に中国文学史上の傑作が登場した。当時の戯曲は元曲(北曲)と呼ばれ、勧善懲悪などを題材とした物語を、口語体の歌詞やせりふで表現する庶民向けの演劇であった。代表的な作品には『西廂記さいそうき』『漢宮秋かんきゅうしゅう』等があるが、やがて北京を中心に発達した原曲が伝わると、江南でも新しい形式の南曲が生まれた。『琵琶記びわき』に代表される南曲は、明代に入って大いに発達し、伝奇とも呼ばれた。小説では『三国志演義』や『水滸伝すいこでん』などの原型が元代にできあがったといわれている。

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