民族国家の形成
- カンボジア:扶南/真臘/クメール王朝
- ベトナム:チャンパ王国/ドンソン文化/北属期/呉朝・丁朝・前黎朝/李朝/陳朝
- タイ:ドヴァーラヴァティー王国/スコータイ王朝
- ミャンマー:ピュー/パガン王朝/ペグー王朝/ピンヤ朝/アヴァ王朝
民族国家の形成
カンボジア
扶南
クメール人(カンボジア)
インドシナ半島のメコン川流域に住んでいたクメール人(カンボジア人)は、インド文化の影響のもとに1世紀末ころ同川の下流域に扶南を建国し、デルタ地帯の開発と海上貿易で栄えた。
この国の外港があったオケオからはローマ金貨、インド製の仏像やヴィシュヌ神像、漢の銅鏡などが発見されている。この国はしばしば中国に朝貢したが、6世紀中ごろ北方に同じクメール人の国家真臘がおこると、それに圧倒され7世紀中ごろ滅んだ。
真臘
クメール人(カンボジア)
扶南にとってかわった真臘は8世紀はじめに南の水真臘と北の陸真臘に分かれて争い、国力を消耗させて一時シュリーヴィジャヤの勢力下に入ったが、9世紀初めにジャヤーヴァルマン2世が国内を再統一し、クメール王朝(アンコール朝)を開いてから強盛となった。
クメール王朝
クメール王朝(アンコール朝)はアンコール地方に都をおき、その領土はインドシナ半島の中部・南部のほぼ全域におよんだ。また神聖化された王権のもとで、王城やヒンドゥー教・仏教の大寺院がつぎつぎに建造された。
12〜13世紀にでたスーリヤヴァルマン2世とジャヤーヴァルマン7世の時代が最盛期であり、前者によってアンコール・ワット(都城寺院)が建造され、後者によってアンコール・トム(大都城, 最初の建設は9世紀末)が増築された(世界遺産:アンコール遺跡)。アンコール朝では治水・灌漑の技術が発達し、その結果としての農業生産の増大がこの王朝の繁栄を支えた。
しかし13世紀後半に衰退に向かい、14世紀後半にタイのアユタヤ朝に圧迫されて領土を失った。
ベトナム
チャンパ王国
チャム人(ベトナム)
半島東南部に居住したチャム人は、2世紀末に中国(後漢)の支配から脱して独立し、チャンパ王国をたてた。中国ではこの国を林邑(2〜8世紀)、環王(8〜9世紀)、占城(9〜15世紀)と呼んでいる。
この国はインド文化を採用し、中継貿易で栄え、石造寺院建築などに独自の様式を生み出した。しかし北隣のベトナム人の王朝や西隣のクメール王国(アンコール朝)との争いが絶えず、10世紀後半しばしばその支配を受けた。そして南下するベトナム勢力に圧倒され、15世紀後半にはほぼその支配下に入り、17世紀に滅亡した。
その間チャンパ王国には宋(南朝)・隋・元の遠征軍が来寇した。今日チャム人は少数民族としてインドシナ半島南東部に居住している。
タイ
ドヴァーラヴァティー王国
モン人(タイ)
モン人は、ミャンマー人やタイ人の南下以前にミャンマー南部、タイ中部・西部などに居住し、7〜8世紀にメナム川(チャオプラヤ川)下流域にドヴァーラヴァティー王国を建国している(〜11世紀)。
その後もミャンマー南部のタトンやペグーなどに数王国をたてたが、ミャンマー人、タイ人の諸国に圧迫されてしだいに衰えた。なお、モン人の間では早くよりスリランカ系の上座部仏教が信仰されており、独特の寺院建築、仏像彫刻を残した。その文化は周辺諸民族に影響を与えている。今日モン人は少数民族として残存しているにすぎない。
ミャンマー
ピュー(驃)
ピュー人(ミャンマー)
ミャンマー人が南下する以前に、イラワディ川中流域にはチベット・ミャンマー語系のピュー(驃)人が、南部ミャンマーにはモン人が、それぞれ勢力を張っていた。(世界遺産:ピュー古代都市群)
パガン王朝
ミャンマー人は、はじめ南詔に服従していたが、しだいに南下してピュー人やモン人を駆逐あるいは吸収し、11世紀半ばに最初の統一国家をうちたてた。建国者のアノーヤター(1044〜1077)はイラワディ川中流域のパガンに都を定め(パガン朝)四周に領土を広げた。また彼はミャンマー南部のモン人の都タトンを攻略したとき、この地で信仰されていた上座部仏教を都にもたらした。それ以来ミャンマー人の間では、この仏教が信奉され今日にいたっている。
パガン朝では仏教寺院の建造が盛んで、首都は寺塔で埋め尽くされるほどであったが、こうした出費は国力をおおいに消耗させた。13世紀後半、パガン朝は元朝のフビライの遠征軍の度重なる侵寇をうけて衰え、ほどなく滅亡した。
ペグー王朝・ピンヤ朝・アヴァ王朝
シャン人(ミャンマー)
これにかわって勢力をふるったのは、南下してきたタイ系のシャン人であり、14世紀初めから約250年間、ミャンマー北部のピンヤ(ピンヤ朝)とアヴァ(アヴァ朝)に王国をたてて、南部のペグーを本拠とするモン人(ペグー王朝)としばしば戦った。
タウングー王朝
ミャンマー人(ミャンマー)
しかし16世紀に、勢力を回復したミャンマー人(タウングー王朝)に滅ぼされた。
タイ
スコータイ王朝
半島の中央部、今日のタイの地には、はじめモン人・クメール人の国家が存在していたが、雲南方面から南下してきたタイ人は、クメール王国(アンコール朝)の衰えた13世紀半ばに、メナム川中流域のスコータイで最初の王朝(スコータイ朝 1257頃〜1438頃)を創始した。
全盛期の王はラームカムヘーン(位1279頃〜1299頃)である。この王朝では上座部仏教が保護され、寺院や塔がたてられ、仏像がさかんに造られた。これらの建築や彫刻の様式は、それ以後のタイ美術に大きな影響を与えている。タイ(シャム)文字がつくられたのもこの時代である。1351年に南方でアユタヤ朝がおこると、スコータイ朝はしだいに圧迫され、1438年にこれにとってかわられた。
ベトナム
ドンソン文化
ベトナム人(ベトナム)
ベトナム北部には、戦国時代(中国)から後漢時代にかけて、中国の影響を受けた青銅器〜鉄器文化が存在した。特徴ある銅鼓をともなったこの文化は、遺跡の名をとってドンソン文化と呼ばれ、その影響は諸島部の一部を含む広い地域におよんだ。
この文化を担ったのは、ベトナム人らしい。
北属期
ベトナム人(ベトナム)
武帝(漢)によってこの地に交趾、九真、日南の3郡がおかれて以来(紀元前111)、ベトナム人は1000年以上にわたり中国の支配下にあった。
徴姉妹の後漢に対する反乱(40〜43)などもあったが、結局は失敗に終わっている(徴姉妹(ハイ・バー・チュン) の乱)。
呉朝・丁朝・前黎朝
その後、唐末五代の動乱期にいたり、ベトナム人は念願の独立を達成した(10世紀)。
独立直後の呉・丁・黎(前黎)の3王朝はいずれも短命であったが、黎朝の部将李公蘊が創始した李朝にいたって安定政権が出現した。
李朝
ベトナム人(ベトナム)
李朝は都をタンロン(昇竜・現ハノイ)におき、国号を大越と定め、北は宋(王朝)の侵入軍を破り、南はチャンパーを討って領土を広げた。
陳朝
ベトナム人(ベトナム)
李朝にかわった陳朝(1225〜1400)は、13世紀後半に3次にわたって来寇したモンゴル(元王朝)軍に抵抗してこれを撃退し、また前王朝にひきつづき南隣のチャンパーと戦って、領土を広げている。
ベトナムの地に興亡した李・陳の両朝は、中国の影響を強く受け、公用には漢字漢文を使用し、軍制・税制・科挙制など多くの制度を導入している。また中国から伝わった儒教や大乗仏教が広く信奉された。
一方、モンゴル帝国と戦った陳朝時代には民族意識も高まり、自国の履歴書『大越史記』(黎文体編)が編纂され、チュノム(字喃)と呼ばれる民族文字もつくられた。