清朝と東アジア
16世紀の李氏朝鮮は党争によって国力が衰えたなかで、1592年と1597年の2回にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略がおこった(壬申・丁酉の倭乱(日本では文禄・慶長の役))。朝鮮は、清との朝貢関係が開始されても、清に対する対抗意識は強く、むしろ自分たちが中国文化の正当な継承者であると意識し、両班層の間では儒教の儀礼を中国以上に厳格に継承していった。
清朝と東アジア
朝鮮
1392年に建国された朝鮮(李氏朝鮮)では、科挙のもと、政治を動かし社会的にも重要な影響を与えていたのが、両班であった。両班とは、高麗時代の文武の官僚を文班(東班)と武班(西班)とに分けたことに始まり、朝鮮時代では彼らは政治的・社会的特権身分階層として、文武官僚の出身母体となった。さらに大土地所有者として官職を独占した。彼らは15世紀末、燕山君(位1495〜1506)が即位したのを契機に王位継承問題をめぐる争いがおこるとこれに加わり、さらに儒学の党派争いとも結びついて、激しい党争がくりひろげられた。
16世紀の朝鮮は党争によってしだいに国力が衰えた。こうしたなかで、1592年と1597年の2回にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略がおこった(壬申・丁酉の倭乱(日本では「文禄・慶長の役」))( 東アジアの状況)。このため朝鮮半島全土は被害をうけ荒廃した。ところが戦争後も党争は続けられ、反乱をおこすものも現れた。こうした状況で、こんどは北の満州族の侵入をうけることになる。
ヌルハチをついだホンタイジ(太宗)は、明朝の冊封をうけていた朝鮮に対し1627年と1636年の2回にわたって攻撃を加えた結果、朝鮮は明朝が滅亡するより早く、1637年に清と臣属関係を結んだ( 東アジアの状況)。しかしながら朝鮮は、清との朝貢関係が開始されても、清に対する対抗意識は強く、むしろ自分たちが中国文化の正当な継承者であると意識し、両班層の間では儒教の儀礼を中国以上に厳格に継承していった。
日本に対して朝鮮は、対馬の宗氏との間に条約を結び、宗氏を介して江戸幕府と交渉をもち、19世紀初めまでの間に12回の使節団(第4回以降、朝鮮通信使と呼ばれる)を派遣した。
琉球
明朝への朝貢を続け、それによって他国との交易をおこない、東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要衝となっていた琉球は、16世紀後半、ポルトガルなどのヨーロッパ勢力が東アジアへ進出してくると、その中継貿易は衰退していった。こうしたなか、1609年に薩摩の島津氏の攻撃をうけ、これに服属した。島津氏は、琉球王国の名を利用して対明貿易をおこない、一方琉球も明、さらに清に対して定期的な朝貢を続けた。こうして琉球は、中国と薩摩藩の両方に服属(「両属」体制)することとなった。こうした中国・日本との関係をもつ琉球では、中日双方の文化の影響をうけ、独自な琉球文化が首里城を中心に形成されていった。日本で明治政府が成立すると、1879年、琉球に沖縄県がおかれ、日本の領有となった。