ヌルハチ
太祖ヌルハチ像 (故宫博物院蔵) ©Public Domain

ヌルハチ


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ヌルハチ( A.D.1559〜A.D.1626)
後金初代ハン。女真族の一集団から台頭し、後金を創始(在位1616年2月17日 - 1626年9月30日)。明の悪政を「七大恨」に掲げて明を破り、遼河以東を制圧。「八旗の制」を定めて軍事力を高める。子のホンタイジが国号を「清」と改めた。

ヌルハチ

女真族を独立させ明に対抗する

中国東北部には、女真族が住んでいた。12世紀初めには北宋を征服して金王朝をたてたが、元朝に覇権を握られて以降は、小部族単位で争いを繰り返すにすぎなかった。国力の弱まった明朝が、女真族の抗争鎮圧に手を焼き始めた頃、台頭してきたのがヌルハチだった。

女真族の一首長の子に生まれたヌルハチは、明の地方総兵官に、父と祖父を誤って殺されてしまう。しかしそれを機にヌルハチは明との交易権を手に入れ、富と軍備を蓄えた。やがて周辺女真族を統一。中国北東部(満州)全域を征服し、後金王朝を開いた。強大化を恐れた明が派兵すると、ヌルハチはこれまでの明の悪政を「七大恨しちだいこん」に掲げて宣戦した。10万の大軍をサルフで撃破。遼東半島へ進出した。

ヌルハチ
瀋陽故宮 (後金時代の皇居) 鳳凰楼 ©Public Domain

世界遺産 瀋陽故宮

ヌルハチは「八旗」と呼ばれる軍事組織を始めた。階級を8つの「旗」に分け、階級ごとに土地や特権を与えるもの。また、女真族を満州族と改め、満州文字の制定を行い、明朝に対抗した。

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アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

ヌルハチ
八旗の演習
北京の紫禁城近辺の池での氷上演習。 (画像出典:古代冬日里的冰嬉乐趣_传统文学_龙朔文化网—大型综合文化门户)
東アジアの状況
清の建国
中国東北地方には、農牧・狩猟の生活を営むツングース系の女真じょしん女直じょちょく、清朝成立後に満州と改称)族が住み、明朝の支配をうけていた。この地方でも薬用人参や毛皮の交易がさかんになると、その利益をめぐって女真諸部族相互で争いが激しくなっていった。
15世紀の北方諸民族
15世紀の北方諸民族 ©世界の歴史まっぷ

そのようななか、建州けんしゅう女真の一首長の子に生まれたヌルハチ(姓はアイシンギョロ(愛新覚羅あいしんかくら) 1559〜1626)は、1583年、撫順ぶじゅん関外の興京こうけい付近で挙兵し、1598年建州女真を統一して「マンジュ国」を成立させた。さらにはその北方に位置する海西女真を破り、ほぼ北方地方の全域を統一することに成功した。ヌルハチは1616年、アイシン(満州語で金を意味する)と号する国(後金こうきん国)をたて、ハンの位について(太祖 位1616〜1626)、元号を天命とした。

ヌルハチが金を意味する「アイシン」を国名にしたのは12世紀に同じ女真族がたてた金朝にちなんでのことである。

彼は軍事組織であると同時に行政・社会組織でもある八旗はっきを編制して、女真族を統率した。八旗とは、黄・白・紅・藍の4色からなる4旗と、その4色に縁をつけた4旗とに分けたものであった。

旗の色や形で区別された8個の軍団は、それぞれ7500人の男性から編制されており、この八旗に属する人々を旗人きじんといい、彼らにはさまざまな特権と旗地きちという土地が支給された。太宗時代の蒙古八旗や漢八旗にも適用された。

また、彼はモンゴル文字を借りて表記する満州文字をつくり、統一政策を進めていった。後金の建国とその勢力伸張に驚いた明朝は、10万の大軍を派遣したが、1619年ヌルハチはサルフの戦いでこれを撃破し、1621年には遼河りょうが以東を制圧し、1625年には瀋陽しんよう(のち盛京せいけいと改称)を都とした。

1626年にヌルハチが没すると、その第8子でサルフの戦いで活躍したホンタイジ(1592〜1643)が、人々に推されてハンの位についた(太宗 位1626〜1643)。ホンタイジはしばしば明軍と交戦したが、これを破ることができなかったので、彼はモンゴル高原を迂回して明を攻撃する計画をたて、1635年内モンゴルのチャハル部を平定した。その際、元朝の皇室に伝わったという玉璽ぎょくじを手に入れ、1636年、満州人・漢人・モンゴル人に推されて皇帝の位につき、国号を中国風に(1616〜1912 清朝)と改めた。

明代の東北地方
中国東北地方には、ツングース系に属する半猟半農民の女真(女直)族が居住しており、彼らの一部は12世紀に金朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていたが、元朝やそれにつづく明代では、その支配をうけていた。当時の東北地方の女真族は、北方の海西かいせい撫順ぶじゅん以東の建州けんしゅう、東北地方北部の野人の三大部に分かれて居住しており、毛皮や朝鮮人参などを瀋陽付近に設けられた交易場で、中国側の穀物や金属類と取引していた。明朝の永楽帝は、これら女真族を統合させないために、黒龍江こくりゅうこう下流にヌルカン都司(奴児干都司)を設け、遼東方面に建州衛をおき、名義だけの官職を授け、さまざまな賜与しよや特典を与えていた。こうしたなかで女真族の間に民族的自覚が現れ、統一気運が生まれ、ヌルハチの登場となったのである。
明の滅亡

東林派・非東林派の政争が激化し混乱を極めていった明朝では、17世紀前半に即位した崇禎帝すうていてい毅宗きそう 位1627〜1644)が、東林派・非東林派の政争を抑え、宦官忠賢を排除し、徐光啓じょこうけいらを用いて財政の再建に努めた。しかし、中国東北地方の女真族がヌルハチに率いられて強大となり、これを抑えるために明は軍隊を派遣した。軍事費を捻出するために新税を設けねばならず、また相つぐ飢饉で社会は疲弊し、ついには各地で反乱がおこり、明は内部分裂の状態となった。陜西せんせい地方の農民反乱のリーダーである李自成りじせい(1606〜1645)は、1644年、北京を陥落させ、崇禎帝は自殺し、ここに明は滅亡した。

東アジアの状況 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

清代歴代皇帝

清朝歴代皇帝

廟号 名(愛新覚羅氏)在位時期年号備考
太祖ヌルハチ努爾哈赤
ヌルハチ
1616年 - 1626年天命清の前身である後金皇帝
太宗ホンタイジ皇太極
ホンタイジ
1627年 - 1643年天聡
崇徳
ヌルハチの第8子。後金を清とする。
世祖順治帝福臨1644年 - 1661年順治ホンタイジの第9子
聖祖康熙帝玄燁1662年 - 1722年康熙順治帝の第3子
世宗雍正帝胤禛1723年 - 1735年雍正康熙帝の第4子
高宗乾隆帝弘暦1736年 - 1795年乾隆雍正帝の第4子
仁宗嘉慶帝永(顒) 1796年 - 1820年嘉慶乾隆帝の第15子
宣宗道光帝旻寧1821年 - 1850年道光嘉慶帝の第2子
文宗咸豊帝奕詝1851年 - 1861年咸豊道光帝の第4子
穆宗同治帝載淳1862年 - 1874年(祺祥)
同治
咸豊帝の長子
徳宗光緒帝1875年 - 1908年光緒醇親王奕譞の第2子
愛新覚羅溥儀溥儀1908年 - 1912年宣統醇親王載の長子

清代の中国と隣接諸地域流れ図

清代の中国と隣接諸地域流れ図
清代の中国と隣接諸地域流れ図 ©世界の歴史まっぷ
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