ヨーロッパ列強の侵略に対してアフリカ各地では反乱や抵抗が続発した。エジプトの属領であったスーダンではムハンマド=アフマド Muhammad Ahmad (1844〜85)がマフディー Mahdi (救世主)を称し、エジプト・イギリス勢力に対抗して聖戦を開始した。1885年にはスーダン総督のゴードンを倒して首都ハルトゥームを制圧した。マフディー死後も後継者は独自のマフディー国家を維持したが、1898年、イギリス・エジプト連合軍によってついにマフディー国家は滅ぼされた。西アフリカのギニアでは、サモリ=トゥーレ Samori Touré (1830頃〜1900)がイスラーム国家を建設してヨーロッパ式の軍備を整えてフランスの侵略に抵抗した。サモリはフランスに敵対するイギリスの力を利用しながら抵抗したが、英仏両国の間に妥協が成り立ち、1898年、サモリ帝国は崩壊した。南部アフリカには19世紀初めにシャカ王 Shaka (位1816〜28)によって強力なズールー王国 Zulu がきずかれていた。ブール人のトランスヴァールへの進出を狙っていたイギリスはズールーランドを併合しようとした。ズールー族はこれに激しく抵抗(ズールー戦争, 1878〜79)したが、1879年にイギリスに併合された。
ドイツの支配した領域では、強制的な土地収奪が行われた南西アフリカで、1904年、2つの部族が反乱をおこした。ドイツ軍はこの反乱を鎮圧するのに4年を要し、その間、数多くの残虐行為がおこなわれた。1905年には、タンガニーカで綿の強制栽培制度などに反対して20以上の部族が集結してマジマジの反乱 Maji Maji (マジは「水」の意)をおこした。12万人の犠牲者をだしたといわれるこの反乱の鎮圧後、内外の批判を浴びたドイツ政府は経済的効率を重視した穏健な植民地政策へと転換した。エチオピアでは1896年に皇帝メネリク2世(位1889〜1913)がアドワの戦い Aduwa でイタリア軍を撃破して独立を守った。