アラブ人の征服活動 正統カリフ ヤルムークの戦い イスラーム世界の拡大地図 ニハーヴァンドの戦い
イスラーム世界の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

アラブ人の征服活動 アブー・バルク(正統カリフ)は、アラブ・イスラーム教徒のエネルギーをイラクやシリアなど「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード=聖戦)にふりむけた。ウマル(正統カリフ)の時代、カーディシーヤの戦い(636)ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)で東ローマ帝国軍に破滅的な打撃を与え、642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。ササン朝の滅亡とエジプト、シリアからの東ローマ帝国軍の撤退により、古代オリエント世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。

アラブ人の征服活動

イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
632年にムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが没すると、クライシュ族の長老アブー・バクルがその後継者(カリフ)に選ばれた。 カリフは、ムハンマドが保持していた宗教的権限と政治的権限のうち、政治的権限だけを継承する共同体の指導者であった。しかし、アブー・バクルが即位すると、盟約を結んでいたアラブ部族は次々と共同体から離反し始めた。彼らはアラブの伝統に従って、盟約はムハンマド個人との間に結ばれたものとみなしたのである。 アブー・バルクは、これらの離反を討伐するとともに、アラブ・イスラーム教徒のエネルギーをイラクやシリアなど「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード=聖戦)にふりむけた。
イスラーム世界の拡大地図
イスラーム世界の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ
第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブの時代、イスラームによって統制されたアラブ軍は、カーディシーヤの戦い(636)、ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)で東ローマ帝国(ヘラクレイオス朝)軍に破滅的な打撃を与えた。642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。ササン朝の滅亡とエジプト、シリアからの東ローマ帝国軍の撤退により、古代オリエント世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。 アブー・バクルからアリー・イブン・アビー・ターリブ(656〜661)にいたるまでの4人のカリフは「正統カリフ」と呼ばれる。しかし、征服活動の進展によってカリフ権が強大になると、その継承権を巡って共同体の内部には深刻な分裂が発生した。第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーン(644〜656)は不満分子によって殺され、第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブも過激派の手で暗殺された。シリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤ(661〜680)は、シリアのダマスクスウマイヤ朝(661〜750)を開くことによって、この政治的混乱をようやく収拾することができた。

シーア派とスンナ派

ウマイヤ朝の成立後、アリー(正統カリフ)とその子孫に共同体を指導する権利があると主張する人々は、シーア派(分派)を結成した。これに対して預言者の言行(スンナ)に従って生活することを重視する多数派のイスラーム教徒は、スンナ派と呼ばれる。スンナ派の4法学派とシーア派はそれぞれ独自の法体系をもち、イスラーム教徒はみずからの属する法学派の法によって裁判をうけることができた。
クライシュ族の系図
クライシュ族の系図 ©世界の歴史まっぷ
8世紀初めになるとウマイヤ朝は政治的にも安定し、その領土をさらに拡大した。 東方では、アム川以東のソグディアナやインド(西北インド)の征服が行われ、これらの地域にイスラームが浸透する端緒たんちょがつくられた。 西方では、先住民であるベルベル人の抵抗を排して北アフリカを西進し、711年までにはイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼした。このときからグラナダ陥落(1492年)まで、イベリア半島には800年近くにわたってイスラーム政権が存続する中で、高度なアラブ・イスラーム文明などが生み出されることになる。 アラブ人は家族をともなって征服地に移住し、各地に軍営都市を建設して、これを異民族支配と新たな征服のための拠点とした。イラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタート、北アフリカのカイラワーンなどが新しく建設された軍営都市であった。 ムスリム商人たちはこれらの新都市や既存の都市(ダマスクスやアレクサンドリアなど)を結ぶ緊密なネットワークをつくりあげ、「イスラームの平和」のもとに広大な経済圏が形成された。 7世紀末から「コーラン」の文句を刻んだアラブ貨幣(ディーナール金貨とディルハム銀貨)の発行が始まったのは、このような経済活動の進展に対応するための施策であった。 しかしウマイヤ朝時代には、支配者集団であるアラブ人ムスリムは多くの特権を享受し、土地所有者となっても、規定どおり十分の一税(ウシュル)を支払うものは稀であった。一方、国家財政の基礎である地租ハラージュ)と人頭税ジズヤ)は征服地の先住民だけに課せられ、たとえ彼らがイスラームに改宗しても免除されることはなかった。帝国内のキリスト教徒やユダヤ教徒は、ズィンミー(被護民)として人頭税の支払いを条件に信仰の自由を認められたが、この時代時はまだ身分的に不平等な状態に置かれていた。